「侵攻の引き金」を引いたウクライナの"失策"

ロシア軍の侵攻で破壊されたウクライナ北部・イルピンの街並み(写真:Ivan Vasylyev/PIXTA)
ロシアによる侵攻開始から2年を経てなお、収束の兆しが見えないウクライナ情勢ですが、この戦争の意味を理解するには、約100年にわたる米ロの対立を俯瞰する必要があると、作家で元外務省主任分析官でもある佐藤優氏は説きます。ウクライナ侵攻の背景にある複雑な事情とは。
※本稿は佐藤氏の監修書『米ロ対立100年史』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

みずから行方をくらました「親ロ派」の大統領

2014年2月、ウクライナにおいて現役大統領のビクトル・ヤヌコビッチが行方不明になるという事態が発生した。彼は何者かにさらわれたわけではなく、みずから行方をくらましたのだ。

当時、ウクライナでは「マイダン革命」が進行していた。マイダンとはウクライナ語で「広場」を意味する言葉である。2013年11月から、ウクライナの首都キーウの中心部にある独立広場では市民によるデモ活動が始まっていたのだが(マイダン革命の名称はこの独立広場に由来する)、原因はヤヌコビッチ大統領が国民に約束していたEUとの自由貿易協定締結を延期したことにある。

これは西側と距離を置くという意思表示だった。彼はまた、クリミアにおけるロシアの黒海艦隊の駐留延長も認めた。このことからわかるように、ヤヌコビッチは親ロ派だった。

こうした大統領の行為に対して、不満を覚えた民衆たちが反政府デモを組織。その活動がマイダン革命と呼ばれるようになり、一時は100万人規模に達するほどの激しいデモとなった。ウクライナ政府は治安部隊を出動させて鎮圧を図ろうとしたものの、民衆の怒りを抑えることはできず、多数の死傷者が出た。

2014年2月になっても騒動は収まらず、「もうどうしようもない」とばかりにヤヌコビッチは大統領としての職務を放棄し、ロシアに逃亡したのだった。これが現役大統領行方不明の顛末である。

こうした事態を受けて、ウクライナ議会はオレクサンドル・トゥルチノフを大統領代行に立てて新政権を樹立。それまでの親ロ派から一転して親欧米派の立場を採った。

このマイダン革命の成功にウクライナの全国民が拍手喝采を送った——わけではなかった。親欧米路線に抵抗を覚える国民も存在し、こうした状況がウクライナ情勢を複雑なものにしている。

「広い意味でのロシア人」だと考えるウクライナ人

ウクライナには「自分たちは広い意味ではロシア人だ」と考えている人々がいる。「ロシア人」という言葉には、狭義では現在のロシア人、広義ではベラルーシ人やウクライナ人も含んでいるというニュアンスがある。

ウクライナのロシア人たちは、位置的にはロシアに近い東部や南部に多い。東部ではドンバス地方(ドネツク州とルガンスク州)、そして南部ではクリミア半島だ(クリミアはもともとロシアの領土だったが、1954年にフルシチョフが当時のウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管している)。この地域の人たちは日常的にロシア語を使っている。

一方で、「自分たちは決してロシア人ではない」と考える人たちもいる。こちらはウクライナ西部に多い。とくに最西部のガリツィア地方ではその意識が強い。

この地域は歴史的に見ると、オーストリア・ハンガリー帝国(一般的にはハプスブルク帝国と呼ばれる)の領土であり、第1次世界大戦の敗北によって帝国が解体された1918年以降はポーランド領となっていた。

ロシア領(ソ連領)になるのは第2次世界大戦後であり、また日常的にウクライナ語も使われていることもあって、ロシアに対する思い入れは皆無に等しかった。いや、それどころか、むしろ積極的に嫌っているとさえいってよいかもしれない。

これから触れるクリミア半島併合のあと、ガリツィア地方の中心都市であるリヴィウではプーチンの顔を印刷したトイレットペーパーが人気商品になったという話もあるほどだ。

このウクライナにおける東南部と西部のロシアに対するスタンスの違いは、第2次世界大戦中の対ナチス・ドイツでも浮き彫りにされる。

このときソ連兵としてナチス・ドイツと戦ったウクライナ人は約200万人。一方、ウクライナ西部の人たちはナチス・ドイツに協力してソ連軍と戦った。その数は約30万人と伝えられている。

また、東と西では信仰する宗教も異なる。ロシアに近い東部はロシア正教を信仰しているが、西部に関してはカトリックの影響が強い「ユニエイト教会」(イコン〈聖画像〉崇敬や下級聖職者の妻帯が認められるなどは正教会と同じだが、ローマ教皇の首位性と教義的にはフィオリクエ〈子からも〉を認める東方典礼カトリック教会)の信者が多い。こうした宗教の違いも対立に影を落としているのだ。

このような対立があることを踏まえたうえで、マイダン革命のその後を見てみると、東部と南部の親ロ派の人たち(広い意味でのロシア人)が親欧米政権に対し「冗談じゃない!」と反発したことも理解できる。

相次ぐウクライナからの「独立」の動き

ウクライナ共和国内における自治共和国としての地位を確保していたクリミア(1996年〜)は、ヤヌコビッチ政権崩壊後の暫定政権に対する親ロ派のデモが拡大するなどしたのち、2014年3月にはウクライナからの独立を問う住民投票を実施した。

その結果、9割もの人々が独立を支持。それだけではなく、ロシアへの編入を望むという流れが生まれた。ロシアはこれを受け入れ、クリミア共和国として編入された(国際的には認められていない)。

この動きに対してアメリカ、ヨーロッパ諸国と日本などはロシアを非難し、住民投票の無効を訴えたものの、具体的な軍事介入にまでは至らなかった。

なお、アメリカはこのクリミア併合以降、ウクライナに対して15億ドル以上の軍事支援を提供、その多くはウクライナ軍の近代化や兵士の訓練に費やされた。

同年春、ウクライナ東部のドンバス地方(ドネツク州とルガンスク州)の親ロ派武装勢力とウクライナ中央政府の間で紛争が起きる。こちらもウクライナからの独立を求めての動きだった。

(出所:『米ロ対立100年史』より)

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この場合、マイダン革命ののちにウクライナ政府が「国家言語政策基本法」の廃止を決定したことが大きく影響しているといわれている。

侵攻の契機となった「第二公用語=ロシア語」の廃止

ウクライナでは公用語はウクライナ語と決められているが、普段からロシア語を使う地域に関しては第二公用語としてロシア語を使ってもいいとの決まりがあった。これが廃止されるとなると、公にはロシア語が使えなくなってしまう。

ウクライナ語を使えない公務員や国営企業の社員は職を失うことにもなりかねず、そのため激しい反発が起きて市庁舎を占拠するなどの暴動に発展したのだった。

なお、ロシア語とウクライナ語は、日本語にたとえれば共通語と津軽弁のようなものだという。文法上大きな違いはないにせよ、共通語しか知らない人が津軽弁で会話をすることは難しい。

言葉というものはアイデンティティに大きく関わってくるので非常に大きな問題である。

この国家言語政策基本法の廃止は、激しい反発に驚いたウクライナ政府によってすぐに撤回されたが、ウクライナ東南部の人々に政府に対する警戒感を与えてしまったのは大きな失策だったといえる。

結果としてこれが引き金となり、ロシアから支援を受けた武装勢力がドンバス地方を押さえることにつながっていったのだった。

その後、武装勢力はウクライナ東部の実効支配に至り、それぞれ「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」として独立国家の名乗りを上げたが、ウクライナ政府がこれを認めることはなく、紛争は続いた。

プーチンが2つの「人民共和国」を承認した背景

2014年9月、ベラルーシの首都ミンスクで停戦協定が結ばれた(第1次ミンスク合意)ものの、戦闘が止むことはなかった。

米ロ対立100年史

翌2015年2月になってドイツのアンゲラ・メルケル首相が新たな和平計画を発表する。それを受けてロシアとウクライナ、欧州安全保障協力機構(OSCE)、ウクライナ東部を実効支配している武装勢力が停戦合意に署名した。これを「第2次ミンスク合意」という。

その後、2022年2月にプーチン大統領は両国の独立を承認し、平和維持を目的としてロシア軍を派遣した。その直後、ウクライナへの軍事侵攻が開始される。

ウクライナ東部には最先端の軍産複合体や宇宙関連企業があるのだが、これはソ連時代からモスクワが設置してきたものだ。

もしウクライナが西側寄りになり、さらにはNATOに加盟するという事態が起きれば、ロシアの軍事・宇宙産業に関する機密情報はすべて西側(とくにアメリカ)に流れてしまう。

それもプーチン大統領が2つの「人民共和国」の独立を承認した理由の一つと考えられる。

(佐藤 優 : 作家・元外務省主任分析官)

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