専門家が「専門外」についても語る社会は健全か

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専門家は専門のことしか語るべきでないのでしょうか(写真:metamorworks/PIXTA)
コロナ禍を経てより多くの人々が、社会で流布される主張に数値や根拠(エビデンス)があるのか、関心を払うようになっている。こうしたエビデンス重視の傾向が強まると、数値やエビデンスがなければ説得力を欠く主張だと切り捨てられるようになり、また特定の分野で専門家とされる人であっても、非専門分野のことには言及できないようになっていく。
しかし、エビデンスのない主張、あるいは非専門家の意見はまったく価値がないのだろうか。本記事では、『Z世代化する社会』を上梓した経営学者の舟津昌平氏が、「非」専門分野に対して専門家が言及する意義を、専門「知」という概念を交えて解説する。

「あなたの専門は何ですか」に対する答え

世の中にはさまざまな専門家であふれている。テレビをつければ、経済や政治について見解を述べる学者たちが目に入るだろうし、SNSを眺めれば、○○コンサルなどの肩書で情報を発信する人たちを簡単に見つけることができる。

Z世代化する社会: お客様になっていく若者たち

しかし、「専門とは何か」を深く考えると、そう簡単には規定できないことがわかってくる。かくいう私は「経営学者」である。専門家と呼ばれる同僚たちに対して、「あなたは何の研究をしているんですか」とか「あなたの専門は何ですか」と聞いたとき、答え方は一様ではない。

パターンとしては、知識創造理論やSCPパラダイムなどの「理論」、イノベーションやリーダーシップなどの「現象」、統計分析や実験などの「方法」の3つのどれかで答える人が多い。

ただ経営学の中でも、たとえばイノベーションマネジメント論は「理論」に位置づけられることが多い。しかしイノベーション自体はどう考えても「現象」である。つまり、上に挙げた3つのうちどれか1つで必ず専門性を説明できるわけではなく、専門性を理解するための一部分にすぎないものであろう。

そして、拙著『Z世代化する社会』も、専門性の不確かさによって書店員さんに混乱を与えているようだ。本書は、本屋さんによって置かれる場所がかなり異なっている。たとえば現代社会論とか、若者論、人材マネジメントといった本棚。とある本屋さんでは「日本論」にジャンル分けされていた。読み手によっては、面白かったけど何のジャンルなのかわからなかった、と思われるかもしれない。

そして、本書が混乱を与えているのは人間だけではないようで、進歩が著しいAIもその被害者らしい。Amazon.comではAIによって「心理学の参考図書・白書」や「総務・人事・労務管理の参考図書・白書」にカテゴライズされている。まあ、まだわからなくはない。

驚いたのは「妊娠・出産ガイドブック・マニュアル」に分類されていることだった。本書はもちろん妊娠や出産に関係のない本だ。何らかの情報を基に、AIが「誤読」しているわけである。

何の話をしているかというと、ジャンルというのはなかなかに難しい概念で、だから「専門家」のジャンル分けも難しいのだ。加えて現代は、専門性がますます細分化している。拙著に対しては「経営学者が書いた本には読めないね」というフィードバックもいただいた(中身は面白かったらしい)。非専門家が書いているエビデンスのない本だ、という非難を浴びる条件は、正直揃っている。

専門家が出す「エビデンス」の背景

ここで、私が最近調査している「AI創薬」について紹介したい。AI創薬とは、AIの技術を創薬に生かす取り組みだ。ある講演を聞いた際に、登壇者の方に「正直なところ、AIと創薬それぞれの専門性について、ひとりの先生はどれくらい理解されているのですか」と質問したことがあった。

つまり、講演の題材の論文にはAIの知識と創薬の知識が両方含まれているはずで、それらをすべて理解されているのですかと尋ねたのだ。どちらも非常に高度な専門性が求められるし、分野がかなり異なっている。ひとりが両方修めるのは並大抵ではない。

すると、「率直に言うと、理解できていない部分はあります」と答えられた。「高度化しすぎていて、両方の専門性を完璧に会得するのは無理じゃないかな」とも。理解できない部分については、AIの専門家と創薬(なお、創薬もバイオや低分子といった小分類が存在する)の専門家が緊密に議論し、互いに補い合いながら論文を執筆されるとのことだった。

互いに理解できない部分が存在しながらも1本の論文として発表できるのは、個々が高度な専門性を有するからこそである。しかし専門性が高まりすぎると、共著者同士ですら何をしているのか理解できなくなるという現象さえ起こりうるのだ。

こうした背景をふまえると、「専門家に聞けばわかるだろう、論文出してるし」と、そんなに簡単には言えなくなってくる。「AIのとこは自信がありますけど、創薬のほうは正直わかってなくて……」という「専門家」が、創薬に関する「エビデンス」を創出している、とも言えるからだ。

うなぎ屋はうなぎしか出すべきでないのか

ここで一つ「うなぎ屋問題」というクエスチョンを提起したい。将棋が好きな方ならご存じであろう「藤井システム」で知られる、棋士・藤井猛さんの発言から着想を得たものだ。藤井さんは振り飛車(四間飛車)という戦法を最も得意とし、「こっちは、うなぎしか出さないうなぎ屋だ。ファミレスのうなぎに負けるわけにはいかない」という有名なフレーズを残している。

つまり、さまざまな戦法やスタイルがあるなかで、藤井さんは一つの戦法に専念している。自分はうなぎ屋(振り飛車党)なので、うなぎ(振り飛車)しか出さないし、うなぎ屋以外(振り飛車党でない人)が出すうなぎ(振り飛車)には負けたくない、という考え方である。

この話は専門家にもあてはまる。たとえば、私がイノベーションの専門家だとしたら、イノベーション「だけ」論じるべきなのか。そして他分野の人がイノベーション研究を発表した場合、どうリアクションすべきなのか。専門家は、いかに専門性を限定する(しない)べきか。これがうなぎ屋問題である。

この問いについて、ヒントとなる論文がある。経営学のトップ専門誌である『Academy of Management Annals』にて今年発表された論文で、タイトルは「経営学研究における専門知」(主題を筆者が邦訳)。

つまり、「エキスパート」や「プロフェッショナル」と称される専門「家」ではなく、“expertise”、つまり専門「知」に着目しているのだ。専門知とは専門家から生み出された知識であり、専門性のない素人でも活用できると一般的には考えられている。

「風呂に水をためる専門家」はどこにいる?

一つ例を示してみたい。「災害時にお風呂に水をためる」という慣習を耳にしたことがあるだろうか。日本ではかなり浸透度のある慣習だ。これに対して「災害の専門家」がSNS上でそれはやめましょうと発信し、炎上とまではいかなくとも、大きな注目を集めた。その際に、専門家のポストと同じくらいバズっていたのが、「専門家の意見を聞きたい。誰か、風呂に水をためる専門家を呼んできてほしい」というポストだった。

それ、誰やねん、という話である。ただ、発信者にとってみればおそらく専門家自体が誰であるかはどうでもよくて、論文やデータ、つまり専門知さえ提供されればよいのだろう。自身が専門家になるのは難しくても、専門知を得れば専門家のように物事を考えられるし、現実に活用可能である、と思われているようなのだ。

これは非常に現代的なテーマであり、「ポスト・トゥルース」や「もう一つの事実」、そして科学的否認主義といった議論に関連している。「真実」「事実」がますます相対化されるのと軌を一にして、自説の補強のために専門知を得ようとする。そして専門知が主にネットを介して自由にやり取りされるため、だれもが専門家のように振る舞えるようになってもいるのだ。

とはいえ、専門的トレーニングを受けていない人が専門知を役立てることは簡単なことではない。たとえば「上司がこうすれば何%の部下がどうなる」という専門知を得たとする。しかし、それは限定的で微々たる効果しか持たない可能性が高い。

また、現実として専門知は「上司は部下に対してこう接するべき」など極端な規範として単純化され、原典の論文が読まれることはほとんどない。SNSの140字すら読めない人に、10ページ以上の文章を読みこなせと言うのは酷であろう。

なおそれは、多少言葉は悪いかもしれないが、論文を読む程度の力がない人でもエビデンスに興味を持ち、「自分は簡単に騙されない」という態度を取るようになったとも言える。とりわけコロナ禍が契機となって、人々はより自分で考えようとしている。その変化は無視してはいけないし、そのエネルギーを良い方向にむけられるよう専門家も助力すべきであろう。

専門家はエビデンスの自販機なのか

以上を踏まえたうえで、うなぎ屋問題に戻ろう。専門家は専門のことしか語るべきでないのか。結論を述べると、私はそうではないと考えている。専門家が果たすべき役割は、自身が研究する(狭い)領域の中で、一般の人たちにとって役立つ知識を、数値やエビデンスをもって裏付けること「だけ」ではないはずだ。

そう言える理由はいくつかある。まず、「特定の専門家による専門知の伝達」という流れのみを支持してしまうと、ますます専門の狭隘化が進むからだ。風呂に水をためる専門家とか、「どこに存在するかわからないけど、それには詳しいだろう人」しか頼るべきでないという流れは、きわめて危なっかしい。

研究者の世界は、そんな超特殊な専門性を形成するようには本来できていない。反面、それがウケることを察知して、メディアに向けて専門性を「詐称」する人も生まれるだろう。なお、私は別にZ世代の専門家ではないと、この場を借りて断っておく。

また、専門知が求められる社会課題は往々にして複合領域であり、単一の専門知だけで解決不可能である、ということにも注意すべきだ。風呂に水をためる問題を本気で考えるなら、誰に問うべきか。災害の専門家か。災害の専門家とは、どこで何をしている人々か。

私は、土木工学などを思い浮かべた。実際、土木工学者の方が防災を研究しているのを知っていたからだ。という話を建築士の方にしたところ、風呂の話なら土木って感じではないですね、建築学のほうが近いのでは?と意見をもらった。「ちなみに水をためると波を起こして振動を吸収できるので、私は意味あると思いますよ」とも仰っていた。

元々の発信者は災害時にためた水でトイレを流すことの危険を訴えていたようなので、そうなると大学の先生よりメーカーの技術者のほうが専門家としては詳しいかもしれない。ただそういう方々は業務上論文を書かないこともあり、「専門家の論文がほしい!」と素人が叫んでも、そんなもの世の中に存在しない可能性すらある。

コロナ禍にせよ、解決がめざされる困難な社会課題は、たとえば医学者、疫学者、医療者、経済学者、公共政策学者など、それぞれのプロが集まって、慎重な合議のうえで意思決定する必要があったはずだった。専門知は集合知なのだ。ただ一般的には、どこかに存在するたった1人の専門家のたった1本の論文が日常のお悩みに答えを与えてくれる、それが専門家の使い方だ、と思われつつある。はっきり言って、危険な誤解である。

研究者の能力を世の中に還元するために

そもそも研究者が有する能力には、特別な観察力、分析力、表現力が含まれる。論文やエビデンスの産出のために思考し、少なくとも一般人よりは精緻に仮説や主張を打ち出すことができるだけのトレーニングを、研究者は日々行っている。そういった意味で研究者は「知」の専門家なのであり、分野をとやかく区切るのみならず広いスコープをもってよい。研究者は素人に専門知を供出してくれる「専門知の自販機」なのでなく、知そのものの専門家だとして、社会でもリスペクトされるようになってほしいと願う。

これは別に研究者の言うことなら正しいと思えということではなく、専門が狭くなりすぎた研究者が少しでも世の中で役立つ機会を増やせるように、という思いからの提案でもある。ファミレスのうなぎが駄目だと言うよりも、旨いうなぎ屋は中華料理を作らせても美味しいんだよ、と言えるほうがはるかに建設的ではないだろうか。

(舟津 昌平 : 経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師)

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