「引退から50年」長嶋茂雄は一体何が凄かったのか

巨人元監督の長嶋茂雄(手前右)と元巨人の松井秀喜(左)(写真:時事)

読売巨人軍は球団創設90周年記念特別試合として5月3日の阪神戦を「長嶋茂雄DAY」とした。東京ドームには、車いす姿の長嶋茂雄が姿を現した。今年の2月で88歳になった長嶋茂雄は、観客席ににこやかに手を振った。5月3日から6月9日までは「レジェンドデー」となっている。

長嶋茂雄が「わが巨人軍は永久に不滅です」の言葉を残して現役を引退してから今年で丸50年。仮にプロ野球を理解できる年齢を「10歳から」と設定すると、ミスタージャイアンツ、長嶋茂雄をオンタイムで知っている世代は還暦過ぎということになる。

日本野球界は、イチローや現役の大谷翔平など多くのスーパースターを生んできたが、今振り返って、長嶋茂雄ほど日本人に大きな影響を与えたスターはいなかった。今や、長嶋の現役時代はおろか、監督時代さえ知らない人が多いが、改めて振り返ってみたい。

高校通算の本塁打は意外にも1本だけ

長嶋茂雄は1936年2月、千葉県臼井町(現佐倉市)に生まれ、中学から本格的に野球を始める。佐倉一高に進学し頭角を現す。3年生の夏、埼玉県大宮球場での南関東大会で350フィート(105m)のホームランを打って注目されたが、高校通算の本塁打はこの1本だけだった。

セレクションを受けて立教大学に入学。この時点では無名選手だったが、2度の首位打者に輝くなど東京六大学屈指の強打者となる。当時の東京六大学の通算本塁打記録は7本だったが、長嶋は4年生最後の試合で通算8本目の本塁打を打って更新し、ファンを沸かせた。

ジャイアンツレジェンドの告知(東京ドーム)(写真:筆者撮影)

今の感覚では大学野球はプロへの登竜門という感じだが、長嶋が在籍していた1950年代まで、東京六大学はプロ野球と肩を並べる日本のトップリーグと思われていた。「プロと東京六大学、どちらが強いか」みたいな議論がまじめに行われていたし、新聞のスポーツ欄では、東京六大学のほうが扱いが大きいこともしばしばあった。

長嶋茂雄はその東京六大学のトップスターであり、その進路に全国のファンが注目した。立教大学の先輩で、南海ホークスの外野手だった大沢昌芳(のち大沢啓二、大沢親分)のスカウトで、長嶋はエースの杉浦忠と共に南海入りが決まりかけていた。しかし直前になって、長嶋の兄に強く働きかけていた巨人への入団が決まる。

最高のデビューをした長嶋

巨人や西鉄の名監督として知られた三原脩は、当時、巨人の本拠地球場だった後楽園球場の株を所有していたが、長嶋の入団が決まったとたん、後楽園の株が急騰して驚いたという。

「長嶋茂雄巨人入り」は、全国の野球ファンにとって注目のニュースとなり、1958年春のキャンプ地の兵庫県明石には多くのファンが詰めかけた。
ルーキーイヤーに長嶋茂雄は、29本塁打で本塁打王、92打点で打点王、そして打率は.305で2位。あわや新人で三冠王という空前の活躍をする。新人で打撃タイトルを取った打者は、これ以外には翌1959年に大洋の桑田武が31本で本塁打をとった例があるだけ。長嶋茂雄は今に至るも最高のデビューをする。

この年の11月、皇室会議は皇太子(現上皇)が翌1959年4月のご成婚を発表。日本人は皇太子ご成婚の放送を見ようとテレビの受像機を先を争って購入、テレビの普及率が急増したが、そのテレビで、巨人の長嶋の縦横の活躍の模様が放映されたのだ。

翌1959年6月25日、プロ野球は「天覧試合」に沸くことになる。昭和天皇は、毎夜、皇居の北側、水道橋(後楽園の最寄駅)の空が光ることに気が付かれ「あれは何か」と尋ねられた。「職業野球のナイターでございます」と説明を受けた昭和天皇は「試合を見てみたい」と言われたという。

これまで大相撲や社会人野球、サッカーなどの「天覧試合」はあったが、プロ野球は初めてだった。対戦カードは巨人対阪神。プロ野球コミッショナー、セ・パ両リーグ会長などが昭和天皇、皇后の傍で固唾をのんで試合を見つめる中、試合は9回表を終わって4-4、すでに午後9時、昭和天皇は9時15分には退席されるという9回裏、阪神の2番手村山実から長嶋茂雄は左翼線に劇的なサヨナラホームランを打った。

テレビ中継は巨人戦一色

レリーフがある東京ドームのNagashima Gate(写真:筆者撮影)

日本国中が沸いたこの一打の瞬間に、プロ野球は日本の「ナショナルパスタイム」になったと言っても大げさではない。また、この時から「巨人」は、プロ野球でも別格の存在になった。

1950年代の新聞のラジオ欄を見ると、午後7時のゴールデンタイムには「巨人戦」と共にパ・リーグの黄金カードだった「南海-西鉄戦」なども見える。さらに休日には大学野球のテレビ中継もあった。

しかし1960年代にはテレビ中継は巨人戦一色になっていく。当時、少年雑誌が雨後の筍のように創刊されたが、こうした雑誌の表紙には長嶋茂雄の顔がでかでかと載った。ライバル紙が揃って「長嶋の表紙」も珍しくなかった。また長嶋茂雄が登場する野球漫画もたくさん掲載された。中には長嶋茂雄がバットで宇宙人を撃退するという荒唐無稽なものさえあった。

筆者はこの時代に少年期を過ごしたが、近所で巨人の「YG」以外の野球帽を見かけたことはなかった。1965年から、巨人は空前のV9(リーグ戦、日本シリーズ9連覇)を達成する。そんな中、1968年に始まったアニメ「巨人の星」によって、子どもたちの「巨人人気」も決定的なものになる。

東京ドームに残るレリーフ(写真:筆者撮影)

民放のプロ野球中継は、ほぼすべてが「巨人戦」。他のカードはローカル局やNHKが時々放映するだけ。巨人戦の視聴率は常時20%を超え、テレビ局にとってはキラーコンテンツとなった。

巨人を除くセ・リーグ5球団は、本拠地での「巨人戦」の放映権料だけで採算が成り立ったと言われる。巨人戦がなかったパ・リーグはほとんどが赤字で、親会社の補填を受けていた。

こうしてプロ野球は「ナショナルパスタイム(国民的娯楽)」になった。まさに長嶋茂雄が巨人に入団した1958年を契機として、日本の大衆文化は音を立てて変わったのだ。

王と長嶋の「ONコンビ」

長嶋の1年後に入団した王貞治が、一本足打法になってから13年連続本塁打王になるなど、圧倒的な活躍をする一方、長嶋は記録的には王に見劣りしたが、人気では負けなかった。王と長嶋、ONコンビは日本スポーツ界の最高のスターだった。

南海の大捕手で長嶋茂雄と同学年の野村克也は「王や長嶋はヒマワリ。私は日本海の海辺に咲く月見草だ」と言ったが、巨人、ONと他のプロ野球選手はそれほどの差が開いていたのだ。

東京ドーム、ジャイアンツレジェンドのバナー(写真:筆者撮影)

その長嶋にも引退の時が来る。巨人のV9が途切れた翌1974年、長嶋茂雄は17年間の現役に別れを告げ引退する。

涙にくれながら球場を一周する長嶋の雄姿は、夕方のテレビで中継され、当時中学生の筆者もテレビで見た記憶がある。

長嶋茂雄の楽天的な明るさ

長嶋茂雄がなぜこれほど人気があったのか? それは活躍に加え、天性の楽天的な明るさにあったと思う。

長嶋の前の大スター、川上哲治は「彼は親孝行だからヒットが打てたんです」と語るなど修身の教科書のようなキャラだった。また同僚の王貞治は「真剣を振り抜いて打撃の神髄を極めた」求道者だった。

しかし長嶋茂雄は、いつも楽しそうに野球をした。ベースを踏み忘れて本塁打をフイにしたり、ストッキングを片足に2枚とも履いたり、おかしな逸話に事欠かなかった。そういう意味でも、長嶋はかつてないタイプのスーパースターだった。

引退後、長嶋茂雄は巨人軍の監督を2期15シーズンにわたって務め、リーグ優勝5回、日本一に2回輝いているが、就任1年目には巨人史上初の「最下位」という屈辱も味わっている。「監督長嶋茂雄」の能力については、議論の余地があるところだろう。

しかし引退後の長嶋は、ユニークすぎる言動が「長嶋語」としてもてはやされるようになる。

・キャンプで「君、僕と同じ誕生日だって?で、何日なの?」
・「僕はバースデーホームランを1本も打ったことがないんだ、なぜかなあ?(長嶋はプロ野球シーズン開幕前の2月20日が誕生日)」
・ロサンゼルス五輪で、カール・ルイスにいきなり「へい、カール!See You Again!(さよなら!)」「前に会ったな」と言うつもりだったらしい。
・「鯖という漢字は、魚篇にブルーですね」
・ふがいないプレーをした外国人選手に「ユーはそれでもマンか!」
・チャンスで「よし!打つと見せかけてヒッティングだ!」
・好きな数字は?「それはもちろん、ラッキーセブンの『3』ですよ」
・監督復帰会見で「12年間漏電させていただきまして(充電というつもりだった)」

脳梗塞で倒れてからメディア露出は減少

こうした「長嶋語」は、長嶋茂雄を神聖視した現役を知る世代ではなく、その後のポップカルチャー世代にもてはやされた。筆者もその世代で「長嶋語」をコレクションしたものだ。中には長嶋と関係のないジョークも交ざっていたが「長嶋なら言いそうな」言葉も含め、若い世代にもてはやされた。こうした「消費のされ方」も長嶋茂雄ならではだろう。

2001年、2度目の巨人監督を退任した長嶋はアテネ五輪野球日本代表の監督に就任。しかし2004年3月4日に脳梗塞で倒れた。回復したものの以後は、メディアへの露出は極端に減り、半世紀以上続いた「長嶋茂雄ブーム」もこれで終焉か、と思われたが……。

東京ドーム内の3ゲート(写真:筆者撮影)

最近、メディアでは「長嶋」の2文字を目にする機会が激増している。長嶋茂雄の長男の長嶋一茂が、出演すれば確実に視聴率が稼げる人気タレントになったのだ。

一茂は、1966年、茂雄の長男として生まれる。立教大学からドラフト1位でヤクルトに入団、のち父親が監督を務める巨人に移籍したが7年、通算18本塁打で引退。

芸能界に進み、一時は「おバカキャラ」のようになったが、テレビのニュースショーで「意外にしっかりしたコメントをする」こともあり、タレントとしての幅を広げていく。

今も「消費」されている長嶋茂雄

「皇室に次いでよく知られた家庭に生まれた」毛並みのよさ、父親を彷彿とさせる若々しく精悍な風貌もあって、好感度もアップした。

年配の人は一茂と父親のイメージをオーバーラップさせる。若い世代は「すごいお父さんなんだって?」と茂雄に関心を寄せる。

プロ入りから66年、長嶋茂雄はさまざまに「再生産」されながら今も「消費」されているのだ。

2021年、長嶋茂雄はプロスポーツ界では初めて文化勲章を授与された。昭和の大衆文化を担った長嶋にとってまことにふさわしい。こんな野球人はもう出てこないだろう。

(広尾 晃 : ライター)

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