高報酬が支えた「江戸の物流魂」 エンジンなき時代の人力輸送! その仕組みと歴史的背景に迫る

農村に不足していた日用品を運ぶ「戻り船」

歌川広重画。人を乗せた船を河岸から引く「曳舟」(画像:名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね/国立国会図書館)

歌川広重画。人を乗せた船を河岸から引く「曳舟」(画像:名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね/国立国会図書館)

 河川水運には、船が各地から都市や港へと物資を運ぶ「下り」と、都市や港から各地に荷物を積んで帰ってくる「上り」がある。江戸時代、下りは川の流れに従い、竿(さお)や櫓(ろ)を駆使して船を操ればいいが、上りは流れに逆らって遡航(そこう。川をさかのぼって航行すること)しなければならなかった。エンジンもモーターもない時代、いったいどのように遡航していたのだろう。

 関東地方で栄えた江戸時代の代表的な河川水運は、利根川水運と荒川・新河岸川水運である。

●利根川水運
 上野国(群馬県)利根郡を起点に下総国葛飾郡の関宿(千葉県野田市)を経て、太平洋の銚子へ至る。

●荒川、新河岸川水運
 荒川水運は武蔵国(埼玉県)の西部~関東平野を東に向かい、高尾(埼玉県北本市)、平方(同上尾市)などを経て江戸へ至る。
 川越に起点を置く新河岸川が途中で荒川と合流する水運は、「川越舟運」と呼ばれた。

ほかにも東北の北上川・最上川、北陸の阿賀野川、中部の木曽川・富士川、近畿の由良川、四国の吉野川、九州の遠賀川などが重要な水運ルートだった。

 水運には内陸の各地から河口へ向かって物資を運ぶ「下り」と、下りの終着地から別の荷物を積んで帰ってくる「上り」があった。この上りを「戻り船」(または「帰り船」)といった。

 下り・上りの積み荷には、それぞれ特徴があった。

 下りは各地から運搬する年貢米と特産物を中心としていた。一方、上りの戻り船は、塩・海産物(魚)・衣類・肥料・燃料・資材など、農村で不足しがちな日用品だ。塩は生活必需品、海産物はカルシウムとして摂取すべき食材。衣類・肥料・燃料も農村には足りなかった。

 日本物流学会誌が、全国の戻り船が運んだ物資を記している(第11号・江戸期の河川舟運における川運の就航方法と河岸の立地に関する研究)

・北上川 食塩、古着
・最上川 塩、木綿、鉄、茶、魚
・利根川 大豆、塩、たばこ、かつお節、干物、海藻、鰯粕(いわしかす/肥料)、酒・酢、麻と綿の織物
・阿賀野川 米
・木曽川 塩、干魚、干鰯(ほしか/肥料)、古手(使い古した衣類・道具)
・富士川 塩
・由良川 塩、菜種、干鰯、油糟(肥料および家畜の飼料)、鉄
・吉野川 塩
・遠画川 綿、たばこ、そうめん、鉄、筵(むしろ)、油、鯨油、砂糖

 また、新河岸川の歴史を詳細につづった書籍『川越舟運』(さきたま研究会)は、1805(文化2)年~1851(嘉永4)年の記録として次の積み荷をあげる。

・川越舟運 醤油、油かす、干鰯、綿、炭、屋根板、障子、古いたるなど

 人の暮らしに不可欠な品々であることが一目瞭然。戻り船はそうした物品を農村に届ける重要な役割を担っていたのである。

水夫たちが岸から綱で船を引っ張る「曳舟」

河口からの風を受けて川上を目指す船団(画像:名所江戸百景 鴻の台とね川風景/国立国会図書館)

河口からの風を受けて川上を目指す船団(画像:名所江戸百景 鴻の台とね川風景/国立国会図書館)

 しかし、戻り船で物資を運ぶには苦労がともなった。川の流れに逆らって遡航するためだ。現在のように動力がない時代、運と人力に任せざるを得なかった。

 運とは「風向き」である。河口から川上に向かって風がある、いわゆる順風のときは船に帆柱を立て、木綿の帆を張って進むことができた。

 歌川広重画『名所江戸百景 鴻の台とね川風景』には、帆を立て遡航する船の姿がある。鴻の台は現在の千葉県市川市国府台で、描かれているのは利根川(現在は江戸川)である。風向きに恵まれ順調に川をさかのぼる姿はさっそうとしている。

 ところが風がなかったり、川上から風が来る逆風となったり、川幅が狭く水深が浅くなったりすると、遡航は途端に滞った。

 例えば荒川水運・川越舟運の場合、千住(東京都足立区)までは河口からの北風と潮流で帆走(はんそう)できたが、そこから先は水路が西へ変わるため風が期待できなくなることがあったという。

 出羽国の南部(山形県)を流れる最上川でも、大石田(北村山郡大石田町)から先は水路が南下し始め、同じ事態に陥った。

 そこで頼りになるのは人力だけだった。

 こうした場合、輸送物資をいくつかの小舟に分載し、さらに各小舟の舳先(船首)に太い綱をくくりつけ、岸にあがった水夫たちが引っ張った。人が引いて航行するのを「曳舟」(ひきふね)という(『和船2 ものと人間の文化史』)。

 小舟に分載すると、それまで荷物を載せてきた船(大船)は軽くなるため、こちらも人力が引くことができた。

 そして場所によってはまた大船に積み戻し、棹・魯・帆も使用する――これを繰り返して上流を目指したのである。

曳舟川の伝承

利根川の水を引いた本所上水の曳舟(画像:絵本江戸土産 四木通引舟道/国立公文書館)

利根川の水を引いた本所上水の曳舟(画像:絵本江戸土産 四木通引舟道/国立公文書館)

 歌川広重が「安藤広重」の名義で描いた『絵本江戸土産 四木通引舟道』に、曳舟の様子がある。

『四木通引舟道』に流れているのは、本所上水である。利根川の水を引き入れた上水道で、別名を曳舟川といった。

 曳舟川は幅が狭く、水深も浅かった。また流れが緩く、風もないため、常に人が綱で引くしか方法がなかった場所である。

 荷物ではなく客を乗せている。つまり曳舟は軽量の小舟だったがゆえにできたことがわかる。

 東武スカイツリーラインと京成押上線の「曳舟駅」は、この『四木通引舟道』の「引舟」に由来する駅名だ。

京都には曳舟を担う労働者もいた

京都の高瀬川で曳舟に従事する男たち(画像:都名所圖會[1]国立公文書館)

京都の高瀬川で曳舟に従事する男たち(画像:都名所圖會[1]国立公文書館)

 信濃国(長野県)・甲斐国(山梨県)・駿河国(静岡県)を縦断していた富士川の曳舟の様子が、『図録 富士川の舟運』(富士市立博物館)に詳しく載っている。それによると、陸の数人は首から胸に綱をかけて舟を引き、舟に残ったひとりがさおでかじを取った。

 陸の男たちは、渾身(こんしん)の力をこめて引けるように、足半(あしなか)と呼ばれるかかとのない特殊な草履を履いていた。前かがみになった際に力が入りやすかったという。

 京都の高瀬川にも、曳舟の記録がある。

 大坂から来た物資は伏見港でいったん降ろされ、小舟に積み替えられると、人足たちが引く共綱(ともづな)によって高瀬川を上っていった(伏見区・三栖閘門[みすこうもん]資料館)。

『都名所図會』に、その様子がリアルに描かれている。

 米俵や蒔を積んだ船を、3人の男が首から胸にかけた綱で引っ張る。左に3人の男の姿が見えるが、後ろ(右)にも4人いることから、数艘(そう)の舟が続いていたと見ていい。実際、10艘近くが連なるなど日常茶飯事だったらしい。

 高瀬川の曳舟人足は、おそらく水夫ではない。曳舟を専門とする者たちだろう。「職業」として曳舟に従事する人々がいたと考えられる。人手が足りなければ、日雇いも少なくなかったはすだ。

 江戸末期~明治初期の逸聞や風俗を記した『明治夜話』にも、次のような一文がある。
「川伝いに綱で舟を引く人々は、雑草や木株の上を越えるように土手上を黙々と体を前のめりにして、賃稼ぎしていたらしい」

 何という重労働だろう。人力で船を動かすには時間も要し、下りでは1日で済むところを、上りでは3日~8日かかることも、ざらにあったという。

 だが、それだけに賃金は高く、水夫たちに限っては当時の庶民にあって珍しく朝昼晩の3食、白米を食べることができた(曳舟専門の賃金は不明)。社会に必要な流通従事者には、高報酬を与えるのが絶対条件だったわけだ。

 翻って、現代はどうだろう――。

●参考資料
・江戸期の河川舟運における川運の就航方法と河岸の立地に関する研究/日本物流学会誌
・川越舟運 斎藤貞夫/さきたま出版会
・和船2 ものと人間の文化史 石井譲治/法政大学出版局
・図録 富士川の舟運/富士市立博物館
・三栖閘門資料館 展示パネル

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