大惨事の記憶を忘れない! 大分市の最新「道の駅」に「レトロ電車」が保存されたワケ
「路面電車」がシンボルの道の駅
2024年7月7日、大分県別府市と大分市を繋ぐ国道10号線・通称「別大国道」沿いの大分市田ノ浦・仏崎エリアに開業した道の駅「たのうらら」。
大分県の二大都市を結ぶ中間地点にあり「田ノ浦ビーチ」から徒歩圏であるほか、九州を代表する観光地のひとつである「大分マリーンパレス水族館うみたまご」や「高崎山自然動物園」からも近いとあって、早くも人気を集めている。この道の駅は1台の
「路面電車」
がシンボルとなっている。大分市内を転々として数奇な運命をたどった電車がこの道の駅を安住の地としたのには、深いワケがあった。
大分市の新名所
まず、たのうららについて紹介したい。
たのうららは2024年7月7日に開業した大分市3駅目の道の駅で、建物は2階建て。24時間利用できる駐車場やトイレのほか、産直市場「たのうら市場」、ストリートピアノが置かれた「おとの聴こえる広場」、展望デッキなどが設けられている。
路面電車「別大電車」が保存されているのは、この道の駅の1階(屋内)。たのうららは公募で決まった名前であるが、隣接するビーチの名前にもなっている「田ノ浦」にならなかったのは、熊本県に「道の駅たのうら」があることも大きいであろう。
ちなみに、たのうららの2階には宮崎に本店を置く辛麺店「桝元」が出店している。
「なぜ宮崎の店が?」
と疑問に思うかもしれないが、大分市は辛麺に欠かせないニラ(韮)の全国有数の産地であり、この桝元を大分県内でFC運営しているのはニラの加工を主業とする大分市の地場企業なのだ。この桝元では、桝元の看板商品「ニラ醤油」が食べ放題であるほか、とり天などの大分グルメやお子さまプレートなどといった“辛くないメニュー”も用意されている。
「九州初の電車」が走った別府湾
それでは、なぜ最新の道の駅に古い路面電車が保存されたのか――。
ひとつ目の理由は、路面電車や大分県の歴史に詳しい人なら察しが付くであろう。かつて、このたのうららがある付近には、別府市と大分市と結んでいた路面電車「別大電車」(大分交通別大線)の軌道が走っていたからだ。
別大電車が開通したのは1900(明治33)年5月。県都であり城下町であった大分町と、築港によって一大温泉地として発展しつつあった浜脇町・別府町を結ぶ路線として誕生した。九州では初の電車だった。その別大電車の開通によって注目を浴びた景勝地が、現在たのうららがある「仏崎」だった。
仏崎はもともと別府と大分を結ぶ経路上の難所のひとつだったが、道路整備が進んだ明治時代に仏崎の岬の上に仏崎公園が設けられた。大正時代には仏崎が桜の名所として「別府三勝」にも選ばれるなど、戦前には人気の観光スポットとなっていたという。
戦後、仏崎公園は放置状態となっており荒れ果てているが、戦前にはこの地は、大分市民や別府市民が別大電車で訪れる一大観光地だったのだ。
電車が保存されたもうひとつの理由
さてたのうららに路面電車が保存された理由は、単に「かつての線路跡に近い場所」というだけではない。ここに電車が保存されたもうひとつの理由は、この地が別大電車にとって忘れることができない大災害
「別大電車仏崎埋没事故」
が起きた場所であるからだ。
1961(昭和36)年10月26日、集中豪雨により大分県内各地で浸水が発生。学校や企業は「半ドン(午後休)」となったところが多かった。そのため、別大電車は午後の授業を取り止めた学校に通う児童・生徒や、通常より早く帰ろうとする社会人たちで満員となっていた。
14時52分頃、軌道横の仏崎の崖が崩落。運悪く別府方面(亀川駅前)へと向かう205号電車が通りかかり、多くの別府市民が巻き込まれた。雨が降り続いていたため救助は難航、最終的には
・死者:31人
・重軽傷者:38人
※運転士・車掌を含む
という大惨事に至った。当日、別大電車沿線の別府市浜脇でも27戸が浸水・流出したほか、翌日には別大電車両郡橋電停近くを走っていた国鉄日豊本線の準急「ゆのか」も土砂崩れに巻き込まれている。
事故後、仏崎には仰々しい落石ガードが設けられ(現在のものは1973年頃に設置された2代目)、またその別府寄りには事故で亡くなった人を弔うためのお地蔵さまが鎮座した。
電車廃止後の渋滞問題
別大電車崩落事故は今から半世紀以上も前の出来事ではあるものの、筆者(若杉優貴、商業地理学者)がたのうららに訪問したときにも電車の座席に座って
「あんとき○○(親戚と思われる)が1本後ん電車に乗っちょってな、やけん助かったんちゃ」
という話をしている人がいたほどで、あの当時を生きた別府市民にとってはいまだに忘れることができない大きな出来事なのだ。
かつては景勝地として知られた仏崎だが、別府市在住の高齢者は今も電車事故のことを連想する人が少なくない。もしこの事故がなければ、たのうららの駅名も
「道の駅ほとけざき」
になっていたかもしれない。
片側1車線しかなかった別大国道は次第に混雑が激しくなり、道路の拡幅のため大分県の要請を受けて別大電車は1972(昭和47)年4月4日に廃止された。電車の廃止によって別大国道は1978年に片側2車線化(4車線化)が完成したものの、通行量の増加はいちじるしく、朝には渋滞が発生するようになった。また、別大電車埋没事故以降も悪天候時には通行止めとなることが度々あった。
そのため、2012(平成24)年には沖合の埋め立てなどにより6車線化が完成。この拡幅では、別府湾沿い側に大波を緩和するフレア護岸が採用されたほか、山際を走っていた道路の大部分が海沿いに移設されるなど、防災面にも力が入れられた。
移設された別大国道と怪談の消失
そのようにして、現在たのうららがある場所は旧道となり、別大間の移動でかつての電車埋没事故が起きた地点にある落石ガードやお地蔵さまの横を通ることはなくなった(新しい道からも眺めることは可能ではあるが)。
実は、別大電車の事故後に鎮座したお地蔵さまは、地元では怪談のひとつとして
「夜にお地蔵さまが手招きをする」
などさまざまなエピソードが語られていた。そうした意味でも、別大電車の事故の記憶は若い世代に継承されていっていた。
しかし、別大国道が沖合に移ると、そうした怪談が語られることすらほとんどなくなってしまった。今では、落石ガードやお地蔵さまが設けられた経緯はおろか、ここにお地蔵さまがあること自体を知らない人が多くなっているであろう。
つまり、この地に路面電車が保存された理由は「かつて電車が結んでいた大分市と別府市の中間地点であるため」であるのみならず、
「この地で起きた大惨事を未来の世代へと伝えていくため」
でもあり、地域防災における重要な使命を担っているといえるのだ。
「邪魔もの」から「シンボル」へ
最後に、506号がたのうららに保存されるまでにたどった複雑な道のりについて触れたい。
別大電車の廃止後、大分県内には合計5両の車両(大分市3両、別府市1両、宇佐郡1両)が保存された。一方で、すでに多くの都市で路面電車の廃線が進められていた上、連結運転や専用軌道上での高速運転に対応すべく間接制御車となっていたためか(多くの路面電車はコントローラーで回路を直接制御する方式)他社からの車両の引き合いは少なく、2両が岡山電気軌道に嫁いだのみだった(この2両は現在も岡山で運転機器のみ現役で使われている)。
別大電車の廃止後、保存もしくは売却された車両は、ほとんどが1950年代後半に製造された比較的新しい500形だった。しかし、多くの保存車両はすぐに荒廃してしまう。それは
「路面電車は邪魔もの」
とされた時代を象徴するような出来事であった。国鉄大分駅前の一等地にある若草公園に設置された506号も同様であった。
506号が保存されたのは若草公園の、ニチイ大分ショッピングデパート(→大分サティ。1973年開店、2009年閉店)前。商店街にも隣接しており人通りが絶えない場所だった。しかし、早くも1980年代には窓ガラスが全て割られたため金網が張られるようになっており、その後、方向幕や種別幕も金属板でふさがれた。
さらに、1990年代の再塗装の際には金網が貼られているところを避けて塗装されたためか、前面部の塗装が現役時代と変わってしまった(その他も細部の塗装が現役時代と異なっており、2024年時点もそれは修正されていない)。
移設後の別大電車
1996(平成8)年、大分市は若草公園の再整備に合わせて野外ステージの設置を決めた。その工事に当たって別大電車が障害となった。
再び邪魔もの扱いされることになった506号。その後、2年間も行き先が決まらなかったものの1998年にようやく大分市東部郊外にある大分市立佐野植物公園へと移設されることが決まった。植物園は入園無料で気軽に見ることができるものの、公共交通でアクセスできないような場所への移設となってしまった。
沿線から遠く離れた場所に移設された506号ではあったものの、移設されるまでの2年間に車体更新ともいうべき全面改修を受けた。これにより元の車体の上から新たな外板が貼られたと見られ、さらに側面のいわゆる「バス窓」は完全に作り替えられてアルミサッシ化された。
車内もバス用部品を用いて補修されており、一部の運転機器やメーター、銘板、シートなどは現役当時とは大きく異なったものに取り換えられた。
「里帰り」計画始動
この頃、別大電車の保存車両は501号と506号の2両のみとなっていたが、西大分駅近くにあった501号はかつての506号と同様にガラスがなくなるなど荒廃が激しく、2004年に解体されてしまった。
佐野植物公園は人里離れた場所にあり、また夜間に閉園することもあってイタズラされることも少なくなった。しかし、沿線から遠く離れた地での屋外保存ゆえに電車の知名度は低かった上、次第に老朽化も進んだ。
そうしたなか生まれたのが、別大国道旧道跡に計画された道の駅への
「別大電車の里帰り」
計画だ。
地元メディアの報道によると、この里帰りはかつて別大電車の沿線であり、そして大きな事故の現場となった田ノ浦地区の地元住民による要望もあったという。
52年のときを超えて再生した電車
2024年7月7日、たのうらら開業。
別大電車はたのうららのシンボルとして、館内に格納されるかたちで保存されることとなった。移設保存に当たって種別幕など保存中に現役当時と変わってしまった一部設備の復元も行われた。
別大電車の横には別大電車の歴史紹介パネルや古い写真が設置されており、そこには電車が災害に巻き込まれた日のものもある。さらに軌道は屋内へと伸びて、イベント時には電車を屋外の仏崎を望む場所まで動かして引っ張り出すことができるようにもなった(ただし動力は「人力だけ」とのこと)。
現在、別大電車は「たのうらら限定・別大電車グッズ」が販売されるほどの人気者となっている。郊外で忘れ去られつつあった古い電車を整備し、再び注目を浴びる存在へと生まれ変わらせてくれた関係者の尽力には頭が下がる。
別大電車の廃止から52年。さまざまな人の思いを乗せてようやく安住の地を得た小さな電車は、今後も道の駅のシンボルとして、そして地域の歴史を伝え続けてくれる存在として、末永く親しまれるであろう。
11/10 17:31
Merkmal