日本の「平和ボケ」はもはや立派な観光資源? インバウンドが虜になる日本の「静寂」と「余白の美」、その観光価値を考える
「何もしない」時間の魅力
観光は、訪れる人々に心の安らぎや新しい体験を提供する特別な活動だ。2021年の東京五輪は、その影響を見直すよい機会になった。五輪期間中、選手村では日本のもてなしが特に目立った。
日本独特のホスピタリティや「平和ボケ」は、現代の緊張した状況のなかで、訪れる人々に安心感や癒やしを与えている。本連載「平和ボケ観光論」では、日本の観光業が提供する平和な環境での特別な体験が、いかに日本の「平和ボケ」が観光資源として価値を持つのかを探っていく。
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仕事や家事、雑務に追われて心身の疲れを感じたとき、日本人なら温泉に浸かってゆっくりしたいと思うのは自然なことだ。この「ゆっくりする」とは、何もしない時間を持つことでもある。「平和ボケ」ならではだ。
日本には、温泉宿や温浴施設をはじめ、リラックスやレクリエーションのために「何もしない系旅」を提供する場所がたくさんある。インバウンド需要が高まるなか、温泉旅館の浴衣を着て温泉街を散歩する体験は、インバウンドにも新鮮なものだろう。
2021年9月に閉館した「東京お台場 大江戸温泉物語」では、色とりどりの浴衣を選んで湯上がりに着ることができ、特にインバウンドに人気だったように感じた。宿泊せずに、スーパー銭湯などの温浴施設で1日ゆっくり過ごすことも、旅の選択肢に加えると日本滞在がもっと楽しめるだろう。
また、温泉だけでなく、漁師町の民宿で海鮮料理を楽しんだり、お寺の座禅道場や宿坊に参加してみたりするのもよい経験だ。さらに、森林浴を楽しんだり、日本庭園で静かな景観を味わったりするのも一興だ。
コロナ禍を経て社会のデジタルトランスフォーメーションが進み、多くの仕事がパソコン作業に依存するなか、スマートフォンの普及によりプライベートでもスクリーンを見る時間が増えた。現代人の「テクノストレス」はこれまで以上に高まっている。
そんななか、旅の間にパソコンやスマホを使わない「デジタルデトックスツアー」が人気を集めている。日常の騒がしさから離れ、自然のなかで“何もしない”時間を過ごすことで、心身のリフレッシュができるだろう。
時間的な“余白の美”の効能
日本の美意識のひとつ“余白の美”は、最近海外でも注目されている。
・水墨画
・日本庭園
のデザインに見られる何もない余白のスペースは、その重要性が高く評価されている。この余白は、デザインだけでなく、タイムマネジメントや生産性、さらにはメンタルヘルスにも影響を与え、特に「何もしない」時間の効能が注目されている。
実は、「何もしない」時間、つまり空想にふけっているとき、脳は作業中よりも活発に動いていることがわかっている。カナダのブリティッシュコロンビア大学が2009年に発表した研究によると、空想にふけっているときの脳は、これまで考えられていたよりもずっと活発だという。
実験では、参加者の脳活動がfMRI(磁気共鳴機能画像法)でモニターされ、何もしていないときのほうが、問題解決を担う脳の領域である外側前頭前皮質や背側前帯状皮質が活発に働いていることが明らかになった。
つまり、何もせずぼんやりと空想にふけっているとき、脳は非常に活発であり、
・知的生産性
・問題解決
において有効であることが示された。「何もしない系旅」は、こうした“余白の美”を体験することで、意外な発想や解決策を生む場になるかもしれない。
人気スポットとグルメ、体験の多様化
時間的な“余白の美”が評価され、また「何もしない系旅」の効能にも注目が集まっているが、日本には目的地に移動するだけで、特に身体をアクティブに動かすわけではない
「ゆる系旅」
も豊富にある。例えば、愛媛県の青島や福岡県の相島、宮城県の田代島などは“猫島”としてCNNなどの海外メディアでも紹介されており、猫好きのインバウンドにとって人気の目的地だ。
「ゆる系旅」の代表的なものに食べ歩きがある。ラーメンやカツカレー、すし、てんぷら、焼き鳥など、インバウンドに人気の食文化が豊富に楽しめる。そのなかでも、彼らの一部は生卵を食べることを、日本ならではの食体験として楽しんでいる。筆者(仲田しんじ、研究論文ウォッチャー)も東京都文京区の飲食店「喜三郎農場」に行ったことがあるが、コロナ禍明けからインバウンドが増え、特に卵かけご飯を味わっている姿が印象的だった。
また、日本独自のバスツアーも「ゆる系旅」として人気だ。あらかじめ決められたスケジュールで気軽に観光名所を巡り、グルメを楽しむことができる。ツアー料金も格安で、手軽に日本を満喫できる。
さらに、女性のリピーター訪日客を中心に、美容院やネイルサロン、エステティック、歯科ホワイトニングなどを目的とした美容観光も人気が高まっている。加えて、医療水準の高い日本で治療や検診を受ける医療観光も、特に富裕層に注目されており、政府は2011(平成23)年から医療滞在査証(医療ビザ)を発行し、最長6か月の滞在や複数回の入国を可能にしている。
インバウンドが盛況な日本では、訪れる目的や動機が年々多様化し、より深くなってきている。
観光ではなく“生活”をしに来る訪日客
夕食はほぼ外食に頼っている筆者は、時々住宅地にひっそりとたたずむ地元の飲食店に足を運ぶことがある。最近では、若い韓国人のカップルや、中国人や韓国人の若い男性のひとり客を見かけることが増えている。
観光中だとしても、このような庶民派の店を訪れるのは少し意外だが、彼らがインバウンドであることはほぼ間違いないだろう。むしろ、その庶民的な雰囲気を楽しんでいるようにも感じられる。SNSやネットのグルメガイドを駆使すれば、地元の人しか行かないような住宅地の店でも簡単に見つけて訪れることができる。
また、一部のインバウンドは、単なる観光や留学、就業を超えて、日本で“生活”を楽しんでいるように見えることがある。ネット記事や掲示板で、若いインバウンドがスーパーで割引された弁当を買っているという話を見かけたり、実際にそうした客を見かけたりすることもある。彼らは、飲食費を節約して、日本での滞在を少しでも長くしようと考えているのだろうか。
かつて、1970年代から1990年代にかけて、タイに住み着いていた欧米や日本の若者たちがいたが、今はその場所が日本になっているのかもしれない。円安もあって、状況は変わったようだ。
一方で、富裕層の移住も進んでおり、東京の中央区や文京区などの都心で、中国人富裕層が中古タワーマンションを購入し、子どもを日本の学校に通わせるケースが増えているというデータもある。
観光地を巡った後、リピーターのインバウンドは「何もしない系旅」を新鮮に楽しむようになり、さらに日本の日常生活や文化に溶け込むような旅を求めるようになっているのかもしれない。つまり、彼らは日本滞在中の“余白の美”を見つけたのだろう。
日本滞在における“余白の美”は、観光産業に新たな可能性を開く視点であり、「何もしない」ことを含めた日本の生活が持つ落ち着いた安らぎと美しさは、今後ますます海外から注目される大きな魅力となっていくのだろう。
11/10 12:21
Merkmal