六本木ヒルズができる前の風景、覚えていますか? 「2003年開業」以前の街並みとは
市街地の再開発の先駆け
2003(平成15)年4月に開業した六本木ヒルズは、東京都港区に位置する複合施設で、高さ238mの六本木ヒルズ森タワーを中心に構成されている。この施設はその後の再開発の見本となった。
以前、六本木ヒルズが建っていたエリア(港区六本木6丁目)には住宅地があったことは、インターネットで簡単に調べることができる。しかし、それらの情報は意外と一面的だ。例えば、六本木ヒルズの公式ウェブサイトには、次のような記述がある。
「六本木ヒルズ開発前のこの地域は、木造住宅を中心とした低層の建物が密集したエリアで、細街路が広がり、消防自動車等も入れない場所でした」
しかし、この地域の歴史は単純ではない。今は消えた町には、明治期の政府高官の邸宅や昭和の芸能人が住んでいた公団住宅、地下水を利用した金魚屋や工場、活気ある商店街など、さまざまな顔があったのだ。
進駐軍接収がもたらした街の変化
江戸時代まで、六本木の大半は武家地で、大名屋敷などが建てられ、その周辺に町人の家が並んでいた。明治に入ると、武家地の多くが売りに出され、代わりに明治政府の官僚や実業家の邸宅が立ち並ぶようになった。
例えば、今の六本木ヒルズの下に埋設保存されている長府藩上屋敷は、中央大学の創始者である増島六一郎(1857~1948年)が購入し、自邸として利用していた。当時の地理感覚では、六本木は都心に近い郊外で、その利便性から邸宅を建てた人たちのなかには、周囲の土地を買い進めて借家を建て、利殖(利子や利益を得て財産を殖やすこと)に励む者も多かった。
大正・昭和初期になると、大邸宅は相続などを契機に土地が切り売りされ、次第に姿を消していった。この流れのなかで、六本木は中小の邸宅や狭小住宅が混在する住宅地へと変わっていった。
六本木が歓楽街に変貌したのは、戦後になってからのことである。六本木には陸軍の歩兵第一連隊(後に防衛庁を経て現在は東京ミッドタウン)と第三連隊(現在は国立新美術館)が置かれていた。進駐軍がこれを接収し、兵舎を設けたことで、六本木には進駐軍向けの店が立ち並ぶようになった。ただ、こうした店が並んだのは主に六本木交差点を中心としたごく狭いエリアだけだった。
ヒルズ誕生前夜の町並み
さて、この記事の主題である六本木ヒルズの建つ場所について見ていこう。六本木ヒルズの住所は前述のとおり、港区六本木6丁目である。旧町名では、その北側の一部が「麻布材木町」で、残りの大部分が
「北日ヶ窪町」
だった。材木町は六本木通りを挟んで、通りの北側にも広がっている。
実際、この地域がどのような町並みだったかを示す資料はほとんど存在しない。六本木というエリアに関する記録は多く残っているが、不思議なことに6丁目についてはほとんど言及されていない。
この記事を書くにあたり、さまざまな資料を調べたが、六本木のなかでも6丁目に関しては、後述するテレビ朝日の所在地として触れられる以外に、その様子を知る手がかりが極めて少なかった。
1990年代初頭に、後の六本木ヒルズとなる再開発計画が報じられた際も、この地域の町並みについて詳しく伝えた記事は見当たらなかった。ただし、唯一の例外として地域の老舗金魚店である「原安太郎商店」を取材した記事がある。この店は、本郷菊坂の「金魚坂」と並び、山手線の内側に残る2軒の金魚専門店のひとつとして知られていた。その記事には、次のように記されている。
「六本木は、東京オリンピックのころを境ににぎやかな若者の町になった。その中で、原商店の周辺は、急こう配の地形に木造、モルタルの住宅、低中層マンションなどが立て込み、干潟のように残っていた」(『朝日新聞』1990年5月8日付朝刊)
このように、当時の様子を伝える記述は断片的なものしか残っていない。なぜこれほど記録が少ないのだろうか。その理由について、地元の人々が編んだ文集『北日ヶ窪の今昔』(港区六本木北日ヶ窪親和会、1993年)では次のように記されている。
「北日ヶ窪にはとくに名所、旧跡等がなく、また戦災で町が、増島、牧田氏邸のコンクリート造の門及び建物の一部を残しましたが、ほぼ全焼しましたので、現在、当時の記録、写真等はごく少なく(以下略)」
つまり、この地域は名所や旧跡がない普通の住宅地であり、戦災によってその痕跡も失われたため、記録に残すべき対象とは考えられなかったのだ。住宅や商店が立ち並ぶ、東京のどこにでもあるような町並みは、当時は特筆すべきものではなかった。
「六本木の夜を変えた」テレビ局
皮肉なことに、「何もない」とされていたこの場所が、戦後の六本木を象徴する存在を生み出すことになった。1959(昭和34)年、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)がこの地に開局した。同局は東映と日本経済新聞、旺文社が中心となって設立され、麻布材木町55番地の東映所有地に本社を構えた。
このテレビ局は、その後の六本木の運命を大きく変えることになる。昼夜を問わず放送を行うテレビ局の存在は、静かな住宅地であったこの地域にまったく新しい息吹をもたらした。当時、地元の商店街の会長を務めた人物の回想録には、その変化を象徴する興味深い一文が残されている。
「これらの諸施設は、あたかも六本木を取り巻く形となり、民放関係の人々の活動が、六本木のその後の街の発展に大きな力となったのである。民放の就業活動が夜間にまで及ぶため、この街も次第に夜行性の活動を余儀なくされることにもなった」(後藤真『六本木古募列ばなし』、中央公論事業出版 1990年)
こうした夜のにぎわいは、材木町の六本木通りに面した地域と、戦前から商店街があった芋洗坂沿いに限られていた。それ以外の地域では、戦後に復興した昔ながらの町並みが残っていた。
興味深いことに、この地域は単なる住宅地ではなく、さまざまな顔を持っていた。前述の金魚屋が示すように、崖下に面したエリアは質のいい地下水を豊富に得られる場所だった。日本教育テレビに隣接する土地には、1958年に東京に進出した「ニッカウヰスキー」が工場を設けている。また、ラムネ工場や瓶詰め工場など、水を必要とする施設も多数存在していたようだ。
芸能人も住む下町、独特の空間
この地域の特徴を象徴する存在のひとつが、日本教育テレビに隣接していた北日ヶ窪団地(1958年完成、5棟、全116戸)だ。この団地は、日本住宅公団による東京の住宅不足解消策の一環として建設され、居住者専用の児童公園を備えるなど、当時としては非常に先進的な設計思想が取り入れられていた。
また、興味深いことに、多くの芸能人がこの団地に住んでいたことも知られている。しかし、この重要な存在にもかかわらず、団地に関する詳細な資料は驚くほど少ない。例えば、当時の週刊誌には
「弘田三枝子は北日ヶ窪団地に住んでいる」
といった記述や、芸能人のファンレターの送り先としての住所が掲載されている程度だ。個人情報の取り扱いが現在よりも緩やかだった時代ならではの記録だが、それ以外の団地の様子を知るための資料はあまり存在しない。
このように、六本木ヒルズの開発以前、この地域は
「さまざまな要素が混在する独特の空間」
だった。現在からは想像もつかないが、豊富な地下水を生かした工場群、先進的な団地、古くからの商店や住宅が共存し、いわば
「山手線の内側の下町」
といえる場所だった。芸能人が団地に住んでいたことは話題にはなったが、特別なステータスを示すものではなかった。むしろ、昔ながらの生活感が残る、東京の普通の住宅地という性格を持っていたのだ。
昭和後期の急変
しかし、こうした普通の下町としての暮らしは、昭和後期に急速に失われていくことになる。
その契機となったのは、前述したテレビ局の進出とそれに続く六本木全体の変容だった。特に、東京オリンピックや地下鉄建設(日比谷線六本木駅は1964年開業)を経た昭和30年代後半には、行政主導で都市計画における用途地域の変更が進められた。例えば、芋洗坂周辺が商業地区に用途変更されたことで、従来の地元密着型の商店街は次々とビルや飲食店に置き換えられていった。
この変化は、六本木全体にとっては「発展」と呼べるものだったかもしれない。しかし、長年この地で普通の暮らしをしてきた住民たちにとって、その影響は非常に深刻だった。地元の人々の声を記録した前出の文集『北日ヶ窪の今昔』には、彼らの苦悩が生々しく記されている。
「区は只賑かな街になればよいというだけでどんなよい街にしようという構想もなかったようです。この街にある中学、通学路とする高校、小学校の生徒にはマイナスになるような酔態を朝から夕方まで見せる街。住民が一番困ったのは一晩中朝まで鳴らしている生バンド、カラオケにすっかり安眠を妨害されたことでした。警察や区役所に頼んだり、新聞の“声欄”に投稿したり、与論にも訴えました。日本の各地にも起こっていた問題でもあって、その後都の条例により、ひどさは緩和されましたが、「ひどい街になった」と、越してしまった家も何軒かありました」(原文ママ)
こうした環境の悪化によって、1980年代初頭にはこの地域は住宅地としての機能を失いつつあった。映画評論家の松田政雄は、1983(昭和58)年にこの状況について記している。
「1956年から57年にかけて本稿の主題である<赤坂・六本木>のうち後者とは地続きの材木町界隈に縁あって仮のねぐらを定めたこともある私といえども、今回の街あるきを通して、ついに、これぞ六本木の<原風景>と呼ばれうべきものに出会いようもなかったのである」(「タテとヨコが交差する反クリスタル地図」『現代の眼』1983年3月号)
松田の指摘が示すように、1983年の時点ですでにかつての下町としての風情は完全に失われていた。それにともない、生活自体も困難になっていた。そんな周囲の発展から取り残されたこの地域で、住民たちが六本木ヒルズの再開発に活路を見いだしたのは、ある意味で必然だったといえる。
六本木が教える記憶の難しさ
この六本木の事例が示しているのは、都市における
「記憶の保存」
の難しさだ。現在、各地の再開発では昔ながらの町並みの一部を保存して、地域の記憶を残そうとする試みがよく行われている。しかし、六本木の経験は、こうした
「選択的保存」
の限界を教えている。町並みは単なる建物の集合ではなく、そこに暮らす人々の生活や地域のコミュニティーがあってこそ成り立つものだ。これは今後の都市再開発において、私たちが真剣に向き合うべき課題だろう。
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