帆船はただの移動手段ではない! クアウテモック「横須賀港入港」が示す、国際交流の重要性とは

海員育成と国際親善と

海上自衛隊の護衛艦を従えて優雅な姿を見せる練習帆船クアウテモック(画像:広岡祐)

海上自衛隊の護衛艦を従えて優雅な姿を見せる練習帆船クアウテモック(画像:広岡祐)

「きれいねえ」
「マストがすごく高いんだね」

 2024年7月、メキシコ海軍の練習帆船・クアウテモックが横須賀港に入港した。三大陸、10か国をめぐる222日間の練習航海で、96人の士官候補生を含めむ261人が乗り組んでいた。

 クアウテモックは全長90.5m、総t数1800t。1982(昭和57)年に完成した3本マストのバーク船で、スペインの造船所が、ラテン米国諸国の海軍向けに建造した4隻の帆船のうちの1隻だという。JR横須賀駅に隣接したヴェルニー公園は、ふだんは海上自衛隊や米海軍の艦船を眺める来訪者が多いが、灰色の軍艦と並ぶ純白の船体に、来訪者からは感嘆の声が上がっていた。

 白い帆を広げて大海原をゆく大型帆船のノスタルジックな美しさは、見るものを魅了してやまない。商用の船舶としては20世紀の前半に使命を終えた帆船も、操船や航海術の訓練の場としての役割は大きく、今なお世界各国の海軍や海員育成機関で運用されている。ハイテク化の進んだ現代の船とは異なり、操船に多くの人員を必要とすることも、海をめざす若者たちの協働やチームワークを育成する上で重要な意味をもっている。

 練習船の航海には、国際交流というもうひとつの目的もある。厳しい訓練の最後を飾る遠洋航海は、友好国との親善、乗員の国際理解を深める役割をはたしている。

 今回のクアウテモックの日本寄港は日本とメキシコの友好関係樹立415年を記念したものだという。江戸時代初頭の1609(慶長14)年、フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロを乗せた船が、スペイン領メキシコへの航海の途中に千葉県御宿沖で遭難、船は大破してしまう。地元民に救助された一行は徳川家康に謁見(えっけん)し、家康は彼らのために船を提供した。このときひとりの日本人商人がロドリゴに同行、メキシコを訪問した初の日本人になったという。親善訪問は両国の交流の歴史をふりかえる機会にもなるのである。

 8月末にはイタリア海軍の練習帆船、アメリゴ・ヴェスプッチが東京に寄港している。こちらは何と1931年に完成した歴史的船舶。21世紀の今も、世界各地で優美な帆船たちが活躍しているのだ。

帆船と戦争の記憶

クアウテモックのフィギュアヘッド(船首像)は、船名となったアステカ王国最後の皇帝の勇壮な姿(画像:広岡祐)

クアウテモックのフィギュアヘッド(船首像)は、船名となったアステカ王国最後の皇帝の勇壮な姿(画像:広岡祐)

 2010(平成22)年夏、ポルトガル海軍の練習帆船サグレスが17年ぶりに横浜港に寄港し、多くの見学客でにぎわった。米国のサンディエゴを目的地とした1年におよぶ練習航海は、チリ建国200年のフェスティバル参加、上海万博のプレゼンスなど、世界各地のイベントに立ち寄る役割もあり、日本への寄港は日葡修好通商条約締結150年を記念したものだった。横浜出港後は長崎港、そしてポルトガル人による鉄砲伝来の地、種子島にも寄港している。

 サグレスは全長90.8m。第2次世界大戦前の1937(昭和12)年に完成している。もとはドイツ海軍の艦船だった。1933年に完成した練習帆船、ゴルヒ・フォッグとその同型船3隻のうちの1隻で、ハンブルグのブローム・ウント・フォス社で建造された。

 これら4隻の戦後は興味深い。ナチスドイツの敗北後、ゴルヒ・フォッグは賠償艦として旧ソ連の練習船となり、のちにウクライナへ、そして母国ドイツに里帰りして博物館船として保存された。同じく賠償艦としてルーマニア海軍の船となったミルチャ、大西洋を渡り、米国沿岸警備隊の練習船となったイーグルの2隻は現在も活躍中で、さまざまなイベントに姿を見せている。整備や補修を重ねた帆船の寿命の長さには驚かされる。

 サグレスの旧名はアルベルト・レオ・シュラーゲターといい、第1次世界大戦のドイツ軍人の名を冠したものだった。米国の収用とブラジルへの転売を経て、1961年にポルトガル海軍の所有となった。新たな船名はユーラシア大陸西端の地名。大航海時代初頭にポルトガル王子ヘンリー(エンリケ)が航海学校を設立した町の名である。これにちなみ、船首には「航海王子」(Prince Henry the Navigator)として名高いヘンリーをかたどった像が飾られている。

 2010年のサグレスの世界周航は「ポルトガルのアジア到着500年」という節目の記念航海でもあった。大航海時代、ポルトガルがインドのゴアを占領したのが1510年。リスボン繁栄の礎となった植民地、ゴアが解放されたのは1961年で、くしくもこの美しい帆船がポルトガルの軍艦となった年だった。

帆船とイベント

横浜港に入港したサグレス。メインマストは高さ45mで、帆に描かれたマルタ十字は大航海時代のポルトガル船のシンボル(画像:広岡祐)

横浜港に入港したサグレス。メインマストは高さ45mで、帆に描かれたマルタ十字は大航海時代のポルトガル船のシンボル(画像:広岡祐)

 世界の帆船が集結するイベントを帆船祭(オペレーション・セイル)と呼んでいる。海運の第一線を去った帆船を追想するパレードとして、1964(昭和39)年7月に米国のニューヨークで開催されたのがスタートとされる。ニューヨーク湾口からハドソン川の河口まで、11か国二十数隻の帆船が帆を広げ、多くの観客を楽しませたという。帆船祭の規模は年々拡大してゆき、1976年の米国建国200年祭では、250隻を超える大小の船舶が集結、史上最大のスケールとなった。

 アジアで初めての本格的な帆船祭として注目を集めたのが、1983年秋に開催された「大阪世界帆船まつり」だった。大阪城築城400年記念まつりの海上イベントとして実現したもので、日本から参加の日本丸・海王丸(それぞれ先代)を含め、世界各国から10隻の大型帆船が参加。洋上パレードは500隻を超えるヨットが随伴する華やかなものになった。

 大会期間中は各船の公開のほか、船員の歓迎パレードや体験航海などさまざまな国際交流が行われ、数十万人の来訪者でにぎわった。今回紹介したクアウテモックはデビュー間もない新造船として参加、サグレスも遠路ポルトガルから来日している。

 この大イベントをきっかけに、大阪市によって帆船「あこがれ」を建造されたことにも注目したい。全長52m、総t数362t、3本マストのスクーナーで、1993年に完成している。

 地方公共団体が独自に運用するという極めて珍しい帆船だった。大阪南港を拠点に、約20年にわたり青少年のセイルトレーニングをはじめとする体験航海事業にあたっていたが、残念ながら大阪市の市政改革方針で事業は終了となった。船は売却されたが、「みらいへ」と改名され、その後も民間の体験航海船として活用されている。

日本丸と海王丸 海員育成の40年

ハンブルグのブローム・ウント・フォス社のエンブレム。ドイツ海軍の誇った巨大戦艦ビスマルクを建造したことでも知られる(画像:広岡祐)

ハンブルグのブローム・ウント・フォス社のエンブレム。ドイツ海軍の誇った巨大戦艦ビスマルクを建造したことでも知られる(画像:広岡祐)

 2024年7月25日、帆船日本丸が宮古港に寄港、歓迎の放水を受けてゆっくりと入港する姿に、出迎えた人々から歓声が上がった。乗組員は44人、実習生は清水海上技術短期大学校の学生86人。拍手に迎えられて下船する若者たちのキビキビとした姿、姿勢のよさが頼もしい。

 日本丸は全長110m、2570t。海技教育機構が所有する4本マストのバーク型帆船である。海技教育機構(JMETS)は戦前の逓信省付属の海員養成所をルーツにもち、戦後は海員学校、航海訓練所と変遷を経て、独立行政法人となった。わが国の重要な海員養成機関として5隻の練習船を運用しているが、そのうち日本丸、海王丸が帆船だ。

 日本丸・海王丸の名をもつ練習帆船としては2代目で、先代は戦前の1930年代の建造。就航から半世紀を過ぎて老朽化が進み、1980年代に入って代替船の建造が計画されたが、予算の獲得には困難がともなった。

「原子力船が計画される時代に帆船の練習船は意味がない」

という声さえあったという。僚船・海王丸は建造を求める100万人を超える署名が集まり、民間の寄付活動によって完成している。

 1984(昭和59)年2月、神奈川県の浦賀で皇太子殿下(現上皇陛下)臨席のもと、美智子妃殿下の支鋼切断によって日本丸の進水式が行われた。先代は船体の設計や帆装の備品がイギリス製だったのに対し、現在の日本丸、海王丸は純国産。船首像はどちらも宮古市の八木澤神社境内のケヤキから彫り上げたものだという。

 就航から40年を経た現在も、海をめざす若者たちを育成する役目をはたしている2隻の帆船。コロナ禍によって国外への航海は控えていたが、2024年1月には遠洋航海も再開、4年ぶりに外地シンガポールへの航海を行っている。

 訓練中の日本丸、海王丸の寄港スケジュールは、海技教育機構のウェブサイトで確認することができる。最寄りの港に立ち寄ることがあれば、日本の誇る大型帆船の美しい姿を間近で味わい、次世代の船員たちのたくましい姿もあわせて目にしてほしい。

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