日本最大の商業地「日本橋」 江戸の物流拠点としても大きな役割を果たしていた!

日本橋の架橋は1603年説が一般的

『名所江戸百景 日本橋雪晴』歌川広重画。雪景色の日本橋を描いた浮世絵。冬にも関わらず、多くの小舟が行き来しているのがわかる(画像:国立国会図書館)

『名所江戸百景 日本橋雪晴』歌川広重画。雪景色の日本橋を描いた浮世絵。冬にも関わらず、多くの小舟が行き来しているのがわかる(画像:国立国会図書館)

 今回は、江戸時代最大の商業地として栄えたお江戸日本橋が、当時の物流に果たした重要な役割について解説したい。

「日本橋」の名称の由来は、はっきりとわかっていない。慶応義塾大学教授だった池田弥三郎は、江戸の町の建設が始まった慶長期(1596~1615)、丸太を2本架けただけの粗末な「二本橋」があり、それが日本橋に転嫁したとのユニークな説を提唱したが、確証には至っていない。

 架橋は1603(慶長8)年という説が一般的だ。随筆集『慶長見聞集』も同年の架橋と記しており、「日本橋」の名称が初めて登場するのも同書だ。もっとも、この書に記された橋は木造の太鼓橋(太鼓の胴のようにアーチを描いた橋)だったと考えられる。

『慶長見聞集』はまた、「天よりやふりけん地よりや出でけん、諸人一同、日本橋と呼びぬる」と、天地からわいたように、いつのまにか日本橋と呼ばれるようになったと記している。

 翌年の1604年には江戸幕府が五街道の起点、つまり全国各地に続く道のスタート地と認定した。そうなった以上は、国(日本)の文字を冠した橋といっても、看板に偽りはなし――皆、そう考えたのだろうか。

 架橋当時の規模は不明だが、1618(元和4)年には三十七間四尺(約68m)だったとの記録がある。1806(文化3)年には、二十八間(約60m)になった。改修するたびに橋の下を流れる日本橋川を埋め立て、次第に川幅を狭くし、同時に岸に市場や倉庫を建設していったのだろう。なお、現在の橋は1911(明治44)年に改修したもので、二十七間(約49m)である。

 川が水運、岸に立つ施設が物流と市場を担い、商業の一大拠点として発展していった。

日本橋からの物資輸送システム

堀が止まった地点を「堀留」という。蔵への搬出入り口だった(画像:国立国会図書館)

堀が止まった地点を「堀留」という。蔵への搬出入り口だった(画像:国立国会図書館)

 水運といっても、日本橋まで大きな船が入港したわけでは、もちろんない。

 諸国から江戸に荷物を積んできた大型の廻船(荷物を積んで各地を回る船)は、品川沖や隅田川河口近くの永代橋・佃島まで乗り入れ、そこで艀(はしけ。輸送船)に積み替え、日本橋近辺の蔵・市場へと運ばれた。廻船に積まれていた荷は、

・米
・酒
・薪
・木材
・醤油
・木綿
・塩

など、人間の生活に必要なあらゆる物資だった。

 日本橋で荷受けされた物資は、さらに小舟に積み替え、狭い水路を通じて江戸市中に運ばれた。江戸は運河が縦横無尽に掘られた水運都市だった。陸地を掘って水路につないだ場所を舟入堀(ふないりぼり)といい、小舟の発着場だった。

 堀を掘り進めて止まった地点を堀留(ほりどめ)といい、こちらは蔵の搬出入り口だった。現在も日本橋に残る堀留町は、この名残をとどめた町名である。人々に暮らしを支える上で、重要な場所だった。

拡大する魚河岸に伴い物流も複雑化

『日本橋魚市繁栄図』歌川国安画。簡易的な「板舟」の上で魚をさばいている(画像:国立国会図書館)

『日本橋魚市繁栄図』歌川国安画。簡易的な「板舟」の上で魚をさばいている(画像:国立国会図書館)

 また、日本橋といえば魚河岸が有名だ。「河岸(かし)」とは物資を荷揚げする地点・施設を指し、現在でいう物流センターである。魚を扱う場所は魚河岸、米は米河岸、青果は大根河岸などと呼ばれた。日本橋の河岸は魚が中心であり、橋の北東にあった。現在も橋の北詰に記念碑が立っている。

 日本橋魚河岸は、徳川家康が江戸に入府した1590(天正18)年には開かれていたと考えられている。家康は江戸に来る際、摂津国佃村と大和田(現在の大阪府西淀区佃と同大和田)の漁民を招き江戸湾の漁業権を与え、近海の生鮮魚介類の販売を認めた。これが魚河岸の元祖である。

 元和期(1615~1624)には増え続ける江戸の人口に対応するため、市場をさらに拡大し、それに伴って流通も複雑になった。

1.まず魚問屋が、江戸湾周辺の小買商人に前もって仕入れ金を渡す。
2.小買商人たちはそのカネを、漁民たちに賃金や漁業の運転資金として渡す。
3.漁民たちは魚を捕り小買商人に渡す。
4.小買商人は押送船(おしおくりぶね)という小型の輸送船で日本橋まで運び、仲買人に渡す。
5.そして、仲買が魚屋などの小売店に売った。

日本橋魚河岸の商業活動

『江戸名所図会 日本橋魚市』には、到着した鮪を荷揚げする仲買人と、その場で鮪を解体する魚屋の姿がある(画像:国立国会図書館)

『江戸名所図会 日本橋魚市』には、到着した鮪を荷揚げする仲買人と、その場で鮪を解体する魚屋の姿がある(画像:国立国会図書館)

「4」「5」は、『江戸名所図会 日本橋魚市』に、詳しく描かれている。

 小買商人が押送船で運んできた鮪(まぐろ)を荷揚げし、仲買人が帳簿を開いている。仲買人から鮪を買った魚屋が、市場で魚をさばいて売る。これを「板舟」(いたぶね)といった。板の上で魚をおろし、その場で販売したため、この名が付いた。板舟は、現代でいえば解体ショーだ。日本は江戸時代から、こうした販売手法を採用していたのである。

 ちなみに鮪は、江戸時代はマイナーな魚だった。鮪は相模湾や房総沖を泳ぐ回遊魚で、捕獲できたとしても、日本橋に届けるには時間を要した。しかも、赤身であるため足が早い(腐るのが早い)。江戸庶民の口に入るには、不向きだったのである。

 だが文化期(1804~1818)に入ると、醤油に漬け込んで保存する「ヅケ」が編み出され、次第に市民権を得るようになっていく。しかし、それでもトロは下等とされた。ヅケにしても劣化しやすかったためである。トロが高級品として愛されるようになるのは、冷凍技術が確立される現代まで待たなければならなかった。

 日本橋魚河岸は、朝の商いだけで1000両のカネが動くといわれた一大市場だった。江戸時代の貨幣価値は時代によって異なるが、便宜上1両を約10万円としても、約1億円。1日だけで巨額の経済効果があった。

景勝地としての役割

『江戸名所図会 日本橋』には西河岸(上部)に白塗り壁の蔵、日本橋川に行き来する多くの小舟、手前に魚河岸がある(画像:国立国会図書館)

『江戸名所図会 日本橋』には西河岸(上部)に白塗り壁の蔵、日本橋川に行き来する多くの小舟、手前に魚河岸がある(画像:国立国会図書館)

 最後に、なぜ日本橋が現在の地にあったかについて、面白い説を紹介したい。

『古地図でわかる! 大江戸まちづくりの不思議と謎』(山本博文/実業之日本社)に、建築史家・桐敷真次郎が提唱した「山当て説」が載っている。それによると、日本橋は北に筑波山、南西に富士山を望むことができる景勝地だった。そのような景観構造を、「山当て」という。

 他にも神田山に愛宕山、上野寛永寺や増上寺が立つ高台も背後に控え、江戸の凹凸地形を見事に生かした景観だったという。こうした都市設計が、徳川の権威を誇示するのに役立ったのではないか――と分析している。

 家康によって開発された日本橋は、江戸時代約260年を通じ、徳川の権勢を訴え続けた。現在の橋に刻まれた「日本橋」の銘も、最後の将軍・15代慶喜の筆によるものである。

●参考文献
・東京の歴史5 物流の一大拠点・日本橋 増山一成(吉川弘文館)
・近代日本における都市内水運に関する歴史地理学的研究 岡島建(学研)
・古地図でわかる!大江戸まちづくりの不思議と謎 山本博文(実業之日本社)
・江戸東京名所辞典(笠間書院)
・東京の歴史地図帳 谷川彰英監修(宝島社)

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