儲けは「食堂車の3倍」!? それでも鉄道の「車内販売」が廃れたワケ 駅弁がちょっと高い理由もここに?

東海道・山陽新幹線での車内販売終了など、列車内での販売業態は全国的に縮小傾向です。食堂車よりは手軽そうな印象ですが、なぜ消えていくのでしょうか。サービスの起こりから現在に至るまでを振り返ってみましょう。

駅弁販売が少ない地方でより発達

 東海道新幹線では2023年秋、ワゴンサービスによる車内販売が終了。山陽新幹線でも2024年3月に廃止されました。パーサーがグリーン車の乗客にモバイル端末で注文した商品を届けるサービスは継続されていますが、弁当類の販売はなくなった形です。
 
 JR東日本の新幹線は一部で車内販売を継続していますが、飲料類のみで弁当はなく、かつてのような「車内コンビニ」ではなくなっています。駅などで事前に購入しなくても、欲しい時に離席して弁当などを買う。このような体験はできなくなる一方なのでしょうか。

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車内販売のイメージ(画像:写真AC)。

 もっとも鉄道車両の中で物品を販売することは、明治時代から行われていたようです。例えば北越鉄道(現・JR信越本線の一部)では、1897(明治30)年に寿司やサンドウィッチなどの弁当類、牛乳、清涼飲料、和洋酒、菓子、果物、氷菓とかなりの品目を販売しています。四国の讃岐鉄道(現・JR予讃線、土讃線の一部)でも1900(明治33)年、「三等車の車内において、食物、果物などを販売」との記録があります。一・二等車には喫茶室を設けていましたから、三等車は物品販売だったのでしょう。

 ただ、車内販売は急速に普及したわけではなく、一般旅客は和食堂車以外では駅での物販に頼っていたようです。そうした中、1927(昭和2)年に鉄道省が「客車内において飲料供給について」という通達を、全国の鉄道局に発信。「夏期にサイダーやアイスクリームを車内販売したい」という内容でしたが、例えば門司鉄道局は「主要駅で販売されているので、列車内で販売する必要はない」として、否定もしています。

 とはいえ、弁当販売駅が少ない東北地方や北海道などでは、車内販売が行われていたようです。

東海道新幹線でのサービス開始も視野

 結局、鉄道省は旅客サービス改善のため、1934(昭和9)年より、食堂車非連結列車で区間を限定して弁当や湯茶を販売することにします。これは好評で、翌1935(昭和10)年には「列車内乗込販売営業手続」が定められました。「列車・区間・品目(弁当・寿司・お茶)を限定して販売する」という内容です。

 ただし戦争が激化した1944(昭和19)年、食堂車の連結は一旦中止され、旅行証明書を持った長距離旅客向けに、五目弁当かパンを特定の列車内や駅で発売する形態となりました。

 戦後、車内販売は食糧事情が安定していた地方線区で再開されます。大陸より引き上げた国民の移動を支援するために、政府が指示したものですが、雑穀や屑米が混入した弁当でした。また、調理室だけが残されて三等座席車とされた元食堂車でも、雑貨が販売されていたようです。

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駅弁のイメージ(安藤昌季撮影)。

 1958(昭和33)年より、国鉄は食堂車非連結列車で、弁当・お茶・雑貨を販売するようになります。現在のようなワゴンを用いて車内販売を行っていたようです。これは、後々食堂車を連結することを視野に入れ要員を育成するためで、供食サービスの主体は食堂車と考えられていました。1964(昭和39)年の東海道新幹線開業も念頭にあったのです。当時は地方に若者が多く、要員の確保は容易でした。

 ただ食堂車は、鉄道が移動の中心だった当時でさえそれほど儲かるものではなく、急行電車のビュフェは赤字を車内販売で埋めている状況でした。

 そして、新幹線ビュフェに採用された電子レンジは「食品を秒で温める」と評判になり、セルフサービス式の営業など、後の外食産業の基本を確立していきます。しかし、これが食堂車だけでなく車内販売も脅かすことになります。

客単価を上げて何とか維持

 1961(昭和36)年、国鉄は供食サービスの根本を見直し、駅弁業者が原則的に車内販売も手掛けるようになります。これを受け、全国で「車内販売業者」が設立されました。

 しかし、最も需要が大きい東海道本線でも、営業列車40本で弁当8000個の売り上げ見込みを立てても販売数は5400個前後に留まるなど、経営は芳しくありませんでした。国鉄は食堂車(ビュフェ)と車内販売業者も同一とし、同じ列車を同じ業者に運営させることで、収益性の改善を図ります。

 それでも1968(昭和43)年には、10万円を売り上げるのに、食堂車は6人のところ車内販売は3人で済むとして、食堂車の採算性も問題視されるようになります。また、洋食が普及して若年層を中心に和食駅弁離れも起こり、売り上げが減少。各地の駅弁は郷土色を取り入れていき、これは現在の駅弁文化につながります。

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JR四国が運行する観光列車「伊予灘ものがたり」の豪華個室「フィオーレスイート」では、専属アテンダントによる接客もある(安藤昌季撮影)。

 さらに高度成長期となり、車内販売要員の確保が難しくなります。食堂車は人手不足と採算性の悪さで営業列車を減らし、駅弁も1970(昭和45)年の年間8475万個販売が、1992(平成4)年に4922万個販売と減少しますが、客単価の向上で維持されていました。

 そうした中、車内販売は食堂車の3分の1の要員で同等以上の売り上げを得られ、食材の破棄も少ないとして、食堂車の代わりとなっていきます。なお、小田急ロマンスカーの「走る喫茶室」のように、一部私鉄ではシートサービスも行われました。

 1975(昭和50)年における新幹線食堂車と車内販売は、東京~博多間「ひかり」の6時間30分営業で、ビュフェ含む食堂車が44万2000円、車内販売が74万2000円でした。これが寝台特急「さくら」になると、2日間 計10時間営業で食堂車が43万円、車内販売が2万5000円と少なく、新幹線の黒字で寝台特急の不採算をカバーしていました。

 こうした状況から、在来線の食堂車は廃止の一途をたどり、2024年現在は観光列車やクルーズトレインの目玉設備として残るのみです。

 とはいえ車内販売もJR各社では2000(平成12)年度をピークとして、2010年代後半には半分以下の売り上げとなり、撤退が相次ぎました。駅ナカなどでパッケージされた食品が調達できる時代であり、観光列車以外での車内販売が難しくなっていることがうかがえます。

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