15年前まで走ってた!? 高速鉄道の元祖「0系」は何がスゴかったのか 世界も味方につけた新幹線

世界初の専用線による高速鉄道を実現した東海道新幹線。その初代車両が0系です。画期的な高速電車でありながら、技術的に無理をしていない歴史的名車について紹介します。

東海道新幹線は世界初の高速鉄道

 今から60年前の1964(昭和39)年10月に開業した東海道新幹線。世界でも類を見ない「高速列車専用鉄道」として開業し、当時世界最速である最高210km/hの高速運転で、世界中に高速鉄道の利便性を示しました。
 
 その初代車両が0系電車です。ただし登場からしばらくは0系とは呼ばれず、「東海道新幹線用旅客電車」と呼ばれていました。そのような東海道新幹線は東京オリンピックに間に合わせるべく着工からわずか5年で建設されました。

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0系新幹線電車(右)(画像:PIXTA)。

 0系の開発も、急変する新幹線整備の政治的状況に影響を受けたものでした。当時の国鉄は新幹線建設費確保のため、政府を通じて世界銀行に融資を依頼。世界銀行は「日本がそのような高速鉄道を実現できるのか」と疑問を抱きました。

 国鉄は「高速鉄道に使用される技術は全て実証済みの技術」と説明するとともに、技術力を証明するために、1959(昭和34)年に在来線の特急形電車151系で高速度試験を行い、当時の狭軌(線路の間隔が1067mm)鉄道で世界最高速度となる163km/hを記録します。安定性の悪い狭軌で160km/hを実現できたことは、標準軌(同1435mm)で250~300km/hを発揮したのに匹敵すると受け止められ、日本が高速鉄道の技術力を持っているとして融資が認められたのです。

 国鉄は追加予算を認める世論構築のために、1962(昭和37)年から試験電車(1000形)の試験走行に一般人も乗車できるようにしました。1000形B編成は電車方式として当時の世界最高速度である256km/hを記録、国内外から新幹線の実現を望む声が高まりました。

 なお、1000形C編成と現場で呼ばれていた6両編成の試験電車は、ほぼ量産車と同じ仕様で、開業時の0系N1編成の一部となりました。京都鉄道博物館では、先頭車両の21形1号車と22形1号車、1等車(後のグリーン車)の16形1号車、ビュフェ・2等車の35形1号車が保存されていますが、35形以外は1000形C編成に組み込まれていた車両です。

「欧州の特急列車には劣る」の声も

 0系の前頭部は、太平洋戦争中に旧日本海軍の高速爆撃機「銀河」などを設計した三木忠直がデザインしたもので、ジェット旅客機DC-8が参考にされました。初期型前頭部の「鼻」の部分は丸いカバーがされ、半透明のアクリル樹脂製で光るため「光前頭」と呼ばれました。鉄道博物館で保存中の21形2号車は、この光前頭が再現されています。

 0系は定員確保のため、2等車(後の普通車)は座席間隔94cmの2+3列転換式クロスシートとしました。この座席は転換式でも不便がないよう、ひじ掛け内にテーブルと灰皿も備えていました。

 1等車は、座席間隔116cmの2+2列回転式リクライニングシートでした。座席間隔は在来線と同じですが、人間工学に基づき、重量分布をX線撮影による骨の状態で確かめて、座り心地を追求した座席でした。なお、当初2等車を「シルバークラス」、1等車を「ゴールドクラス」と呼ぶことも検討されたので、座席も銀と金になっていました。

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リニア・鉄道館に保存されている21形の2等車(安藤昌季撮影)。

 筆者(安藤昌季:乗りものライター)は座ったことがありますが、普通車座席は体の収まりがよく、グリーン車座席は心地よいクッション性でリクライニング角度が大きいため、現代の視点でも悪くない座り心地と感じました。

 ただし、鉄道好きの作家・阿川弘之が開業時、「欧州の特急に比べると、全然デラックスではない」と書いており、登場時でも豪華とは考えられていませんでした。当時の特急では必須と考えられた食堂車も、半室ビュフェに留められました。ただし、151系ビュフェより車両幅が広がったので、座席で食事ができるようにはなっています。

6両編成で開業だったかもしれない!?

 0系のビュフェは2か所に設けられ、1等車の隣は落ち着いた色、2等車の隣は若者向けの明るい色に分けられていました。ちなみに京都鉄道博物館のビュフェ車35形は、1等車の横の落ち着いた色です。

 完成した0系新幹線は12両編成(うち1等車2両、ビュフェ・2等車2両)で運行を開始。開業直前まで予算不足で6両編成への短縮も検討されたほどでしたが、開業後は大好評を博します。開業5年後の1969(昭和44)年から、早くも超特急「ひかり」が12両から16両編成に増強され、逆に利用率の低迷した特急「こだま」のビュフェ車は1両とされ、売店車も製造されました。

 そして1974(昭和49)年、翌年の山陽新幹線岡山~博多間開業に備え、食堂車36形が製造されます。食堂と通路を分け、通路に窓がない構造でしたが「食事をしながら富士山が見えない」と苦情があり、1979(昭和54)年より、通路側に窓が追加されています。なお、著名人の利用に配慮し、車端部だけは窓がなく、座席もソファタイプで座り心地がよい区画も備えられました。

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京都鉄道博物館に保存されている35形のビュフェ(安藤昌季撮影)。

「ひかり」には36形食堂車と、ビュフェ車が各1両組み込まれました。1976(昭和51)年に登場した37形ビュフェ車では、ビュフェ部分の座席がなくなりましたが、新幹線で初めて車いす対応個室が設置されました。この36形と37形はリニア・鉄道館で保存されています。

 なお、37形の登場時で開業から12年が経っていましたが、当時の国鉄は新型車両を開発できる状態ではなく、開業時の0系を、新規製造した0系で置き換えていました。1976年より投入された0系は1000番台となり、2列1窓だった側窓が1列1窓になっています。

ビデオスクリーン搭載車が登場

 1981(昭和56)年から製造された2000番台では、普通車座席が簡易リクライニングシートとなりました。背面テーブルも備わり快適でしたが、3人掛け座席の向きが変えられなくなり、客室中心で背中合わせの集団離反式に配置されたことで、不評でした。グリーン車も背面テーブルの付いた新型座席となっています。

 0系新幹線は1984(昭和59)年まで、36次3216両も製造され、現在でも新幹線で最多両数です。この時期の0系は全て16両編成でしたが、国鉄末期の1985(昭和60)年に6両編成が登場します。

 この5・6号車にはビデオスクリーンが備えられました。また、JR東海となった1987(昭和62)年より、「こだま」指定席の一部を2+2列座席に交換しています。JR西日本も1988(昭和63)年より、一部の0系を2+2列普通車とし、ビュフェや映画館のようなシネマカー(一部)も連結し、新大阪~博多間の「ウェストひかり」に投入しています。

 そして1986(昭和61)年に、最高速度が220km/hに向上しました。ATC(自動列車制御装置)が作動する速度は225km/hなので、それまでより15km/h向上したわけです。さらに1992(平成4)には起動加速度を1.0km/h/sから1.2km/h/sへと向上させ、加速力を増しています。

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リニア・鉄道館に保存されている2000番台。背面テーブルが備わった(安藤昌季撮影)。

 0系は後継の100系・300系電車に置き換えられ、2000(平成12)年に東海道新幹線から撤退。JR西日本からも2009(平成21)年に引退しました。

 世界初の高速鉄道車両として各地に保存車がありますが、世界的にも評価されており、22形141号がイギリス・ヨークの国立鉄道博物館に保存されているほか、台湾の台南駅前でも21形5035号が展示されています。

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