「儲からない、撤退したい」な食堂車に“復活”の兆し なぜ廃れ、なぜいま再注目されるのか

鉄道車両の中に調理設備を設け、料理を提供する食堂車。一時期は全廃も危惧されましたが、現在では豪華列車の目玉として復活傾向にあります。

日本では私鉄が初導入した食堂車

 鉄道で初めて食堂車が登場したのはアメリカで、1868(明治元)年のこと。高級レストラン並みのサービスを提供する車両として登場しました。当時は列車が駅に停車中、慌てて駅のレストランで食事をして飛び乗る時代でしたから、食堂車は歓迎されたのです。

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リニア・鉄道館の100系新幹線2階建て食堂車168形(安藤昌季撮影)。

 日本では私鉄の山陽鉄道(現・JR山陽本線)が1899(明治32)年に導入した、一等・食堂合造車1227~1229号が最初の食堂車です。この車両の一等室は9区画に区切られたロングシートで座席定員は26名。車両の半分は食堂室となっており、簡単な厨房も備えていました。当初、長いテーブルを囲む座席配置で定員10名でしたが、相席を出しにくい2+1列配置に改め、定員13名としました。

 これに対し、JRの前身である官設鉄道は「なぜ官鉄では食堂車がないのか」との批判を受け、1901(明治34)年に新橋~神戸間の急行へ二等食堂合造車を連結します。こちらは1+2列配置で定員12名の食堂室を備え、勾配区間では切り離していました。

 JR四国の路線の原型をつくった讃岐鉄道でも1900(明治33)年、喫茶室を設けた列車が登場します。各列車に特等車と同質の内装とした喫茶室が整備され、乗客の自由に立ち入ることができ、お茶やコーヒー、ビール、菓子、簡単な和洋食などが販売されました。画期的だったのは、少女を給仕として接客させたことです。当時の西洋料理は男性の料理人・給仕が従事するものでした。

 ただし、この喫茶室の利用は一等・二等車(現・グリーン車)の客に限られました。これは三等車(現・普通車)乗客のマナーを考慮したものとされていますが、山陽鉄道では1903(明治36)年より、「身なりを整え、一等・二等車内を通行しないこと」を条件に、閑散時間帯の三等車乗客による食堂車利用を認めました。そして1906(明治39)年からは、官鉄の三等車急行列車に和食堂車が連結されます。

鉄道におけるビュフェとは

 時代は外食産業の乏しい戦前、庶民向けの和食堂車は全国に普及していきます。特急・急行だけでなく、準急や長距離・観光目的の普通列車にも連結されました。日光線や参宮線といった、本線ではない地方路線にも和食堂車が登場したのです。

 1930(昭和5)年になると、官鉄もウェイトレスを採用し、1937(昭和12)年には特急「燕」「鴎」の食堂車に国内初の冷房装置を備えます。この時点では、特急の一等展望車や一等寝台車でも非冷房だったので、画期的サービスでした。

 しかし、太平洋戦争の激化により、1944(昭和19)年に食堂車連結は中止。一等・二等車も廃止され(二等のみごく一部で復活)、鉄道は輸送力に全振りしていきました。

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京都鉄道博物館に収蔵されている、1933年に食堂・二等合造車スロシ38000形として製造され、保存時に博物館用として全車食堂車に改造されたスシ28形(安藤昌季撮影)。

 太平洋戦争終結後、日本を占領した進駐軍向けに、食堂車は復活。一般国民が窮乏する中、白帯を巻いた進駐軍専用列車の食堂車は、別世界の存在でした。日本人が利用できる食堂車は1949(昭和24)年の特急「へいわ」で復活します。

 そして1956(昭和31)年に登場したオシ17形より、幅広車体が導入され、食堂内は2+2列配置での定員40名が可能となります。これは京都鉄道博物館で保存されているナシ20形など、特急用食堂車の基本となりました。

 1958(昭和33)年に登場した、国鉄最初の電車特急151系には、初めての半車食堂車「ビュフェ」が連結されました。カウンターを備えた厨房を持ち、乗客が立食するスタイルです。ビュフェは1961(昭和36)年からの電車急行でも採用され、列車によっては握り寿司やそばなども提供されました。

儲からない食堂車

 ビュフェは東海道新幹線にも踏襲されました。とりわけ車体幅が広がったことで、新幹線ビュフェでは座席にいながら食事ができ、電子レンジの実用化も相まって迅速に食事が提供されたことは画期的でした。

 食堂車はこの時期から増えた、電車・気動車の特急にも連結されます。途中で分割併合する特急「白鳥」には2両の食堂車があり、乗客が食べ比べを楽しんだとか。私鉄の伊豆急行も、1961年から「スコールカー」と呼ばれる食堂車を導入するなど、次々に新車が登場します。

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京都鉄道博物館に収蔵されている、1970年に製造された国鉄20系客車ナシ20形(安藤昌季撮影)。

 表向きには、この時期が食堂車の全盛期だったでしょう。しかし食堂車とは、外国の事例も含めて儲かるものではありません。開業から1年しか経たない東海道新幹線ビュフェでも、担当した帝国ホテルが「利用者の回転率が悪く、儲からない。宣伝どころではないので、撤退したい」と申し入れ、値上げするほどでした。

 特に急行「きたぐに」が食堂車を原因とする火災事故を起こした1972(昭和47)年以降、急行から食堂車が廃止されていきます。在来線特急でも1986(昭和61)年までに昼行特急の食堂車が全廃となり、寝台特急の一部に残るのみに。1974(昭和49)年に全車食堂車36形が連結され、一時は大半に食堂車とビュフェが設けられた新幹線も、1990(平成2)年に登場した300系以降には設置されませんでした。

趣を変えて現在に至る

 そのような食堂車の方向性を変えたのは、1988(昭和63)年に運行開始した寝台特急「北斗星」でした。予約制コース料理による豪華路線が大好評を博したのです。「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」の高級食堂車は、展望食堂車の「夢空間」や、2階建て食堂車の「カシオペア」などに発展していきます。

 その一方で、自由にメニューが頼めた従来の食堂車は、寝台特急が1993(平成5)までに、新幹線が2000(平成12)年までに全廃されました。1992(平成4)年に登場したJR九州の787系電車には、豊かな旅の目玉としてビュッフェが設けられましたが、2002(平成14)年の九州新幹線部分開業で全廃されています。

 再度、全滅しそうな食堂車の転機となったのは、2011(平成23)年の近畿日本鉄道「しまかぜ」でした。電子レンジとはいえ、車内で調理した料理を提供する「カフェ」車両が連結されたのです。単体では赤字でも「豪華列車で集客し、沿線のグループ企業のホテル利用も含めるなら問題ない」と判断されたのでした。

 豪華列車の目玉として、食堂車を連結する流れはその後も続き、2020年には787系を改造した豪華観光列車「36ぷらす3」でビュッフェが復活。JR東日本のE261系電車「サフィール踊り子」は車内調理も行う「カフェテリア」を連結しています。

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JR九州の豪華観光列車「36ぷらす3」。787系電車のビュッフェが復活(サロシ786形)(安藤昌季撮影)。

 そして本格的食堂車は、クルーズトレインで現在も見られます。2013(平成25)年の「ななつ星 in 九州」や、2017(平成29)年の「トランスイート四季島」「トワイライトエクスプレス瑞風」では、一流レストラン以上の料理が提供されています。

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