都電の線路の「出土」なぜ相次ぐ? 舗装の下にまだまだ眠ってる!? 発見された遺構の「その後」

都電の遺構はほとんど姿を消しましたが、令和になって神田川に架かる2つの道路橋で併用軌道が発見されました。いずれも工事で舗装を剥がした際に日の目を見たのです。

お茶の水橋に続き白鳥橋でも

 かつて東京都心部には都電の路線網が張り巡らされ、最盛期には41の運行系統がありましたが、1970年代にほとんどの路線が廃止されました。道路併用軌道(路面電車)がほとんどで、戦後の道路交通法によって軌道敷内への自動車乗り入れが開放されるや否や、慢性的な渋滞と重なって定時運行の妨げとなり、廃止の原因となったのです。
 
 廃止後の併用軌道はレールと敷石が剥がされなければなりませんが、東京中に張り巡らされた軌道の撤去は莫大な費用がかかります。東京都交通局によると、「東京都が国に働きかけた結果、国の指針で軌道を撤去せずとも上から舗装すればよい」という経緯があったとのことです。

 しかし簡易的に舗装を行なった場所は、経年劣化によってレール部分に沿って舗装がヒビ割れました。後年、再舗装工事によって埋められた軌道が撤去され、多くの場所で軌道は跡形もなく消えていったのでした。

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白鳥橋遺構。首都高速道路は39系統廃止後に竣工した。奥の新宿区側が15系統との分岐場所だった。この位置が大曲停留所の停車位置と推測する(2024年10月、吉永陽一撮影)。

 すっかりと都電遺構は忘れ去られて久しい2020年1月、神田川に架かるお茶の水橋改修工事の際に、1944(昭和19)年に運行休止となって廃止された錦町線の併用軌道が出現しました。舗装を剥がすと複線の併用軌道が残っていたのです。軌道は北側部分がカーブする線形となっていました。錦町線は1905(明治38)年のお茶の水橋架橋で敷設され、2代目の橋は1931(昭和6)年に竣工。軌道も整備し、戦時中の休止まで都電が走行したのです。

 発見された軌道は調査され、小ブロック状の御影石(稲田石)が敷石となり、英国ボルコウ・ボーン社製溝付きレール、米国ローレン・スティール社製と国産の官営八幡製鉄所製の標準レール(平底レール)が使用されたことが判明しました。

「レール保存会」が立ち上がった

 溝付きレールは頭部分に溝が入り、車輪のフランジ側が細くせり上がってガイドの役目をする特殊構造で、車輪脱線防止の効果があります。溝付きレールはカーブ内側にあって、標準レールはカーブ外側と直線部に使用され、枕木は鉄製のアングル材をレールに固定した構造で、これは橋上の重量を軽減する目的がありました。レールは「1930年」の刻印があり、2代目橋の整備時に用意されたものとなります。

 戦時中に忘れ去られた軌道が令和の時代に現れたと、連日連夜ギャラリーが詰めかけるほど話題になり、貴重な産業遺産を保存できないかと「お茶の水橋都電レール保存会」までが発足。活動が実って一部のレールと敷石は数か所に保存され、日本大学理工学部船橋キャンパス内の「CSTミュージアム」にも展示されています。

 CSTミュージアムでは溝付きレールと標準レールが切断保存され、特に屋外の展示では併用軌道が2mほど復元されており、工事での路面カッターの痕跡もきれいに修正されています。敷石とレールの断面部も見せるユニークな展示方法となっており、レールと敷石がセメントで固定されている構造も観察できます。

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CSTミュージアムの屋外で展示されている錦町線遺構。1930年米国ローレン・スティール社製のレール。昭和初期はまだ輸入レールも多かったという(2024年10月、吉永陽一撮影)。

『鉄道工学大意』や『軌道敷舗装資料集』などの戦前の書物によると、都電の軌道舗装は数種類存在し、明治期より一般的だったのは「板石舗装」という大振りな敷石が横に並ぶ構造でした。その敷石は都電廃止後でも再利用され、例えば銀座の歩道に再利用されています。

 一方、お茶の水橋では異なる軌道舗装でした。その様子も復元され、軌道中心と外側は小ブロックの石が横に並び、レールを挟むようやや大きめの石が縦に並ぶ構造となっています。石の種類は稲田石を使用したとのことです。

 さて、もう1か所の都電遺構が2024年8月に発見されました。同じく神田川にかかる白鳥橋(文京区と新宿区)で、橋梁撤去のために舗装を剥がした際、39系統の複線併用軌道が現れたのです。場所は首都高速道路5号「池袋線」の直下でした。

往時はどんな橋だった?

 発見された軌道は複線分で、橋全体にかけて残されていました。39系統は早稲田~厩橋間を結び、1968(昭和43)年9月28日が最終運行、翌日に廃止となりました。現在は都バス「上69系統」が路線を引き継いでいます。

 なお白鳥橋の併用軌道は今回が初の“出土”ではありません。実は、1989(平成元)年8月の路面工事中にも出現したことがあるのです。当時、共同通信は「20年ぶりにアスファルトの下から現れた」と報じ、その後再舗装されて埋められたのですが、今回35年ぶり2度目の出現となりました。

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白鳥橋遺構。文京区側の橋端部を見る。敷石は部分的に撤去されているが、断面も少し確認できる。石の種類まではすぐ特定できなかった(2024年10月、吉永陽一撮影)。

 しかし、この併用軌道は三たび埋められることはありません。今回の白鳥橋架け替え工事は神田川の河川整備事業の一環で、水害への安全性を高めるために、4年間かけて護岸改修と架け替えを実施するのです。再び出土した軌道は11月までに撤去しなければなりません。そこで東京都では、遺構の無料公開を10月15日と16日に開催し、2日間で約2000人の来場者がありました。これほどまでの来場者数は驚きですが、多くの人々が都電遺構に関心を寄せている証左とも言えましょう。

 白鳥橋は1936(昭和11)年に架橋された、単純プレートガーダ―橋です。I型鋼を並べて組み合わせた構造で、橋梁のなかでは基本的なタイプとなり、桁の上部に歩道、道路、軌道がセットとなった鉄道道路併用橋でした。

 39系統は早稲田停留所を発つと、白鳥橋の新宿区側で15系統(高田馬場駅前~茅場町)と分岐して、橋上では若干カーブしていました。そこに大曲停留所があり、乗客は自動車を避けながら電車に乗るという状況で、広島電鉄の小網町電停のような安全地帯のない停留所でした。

都へは保存の申し出が来ている

 見学会はあらゆる角度で遺構を観察できました。カーブの内外ともに溝付きレールで、軌道の延長線上には急坂の「安藤坂」が見えます。約66パーミル(1000m進むと66m上る)の勾配があり、39系統の難所でした。早稲田行きだと安藤坂を下った先に白鳥橋が控えているため、滑りやすい雨の日は運転士も気が抜けなかったことでしょう。

 軌道舗装について、敷石は小ブロック状のものを敷き詰めたもので、お茶の水橋の錦町線遺構よりも小ぶりな印象です。敷石は一般的に御影石を使用し、都電では稲田石を多用していました。おそらくこれも稲田石かと思われますが、見学会の会場では確認できませんでした。敷石の形状から、板石舗装ではなく「ブロック舗装」と表したほうがしっくりきます。

 都電の遺構はすでに出尽くした感がありますが、まだどこかに埋まっている可能性はあります。廃止から半世紀以上経過したいま、道路工事で舗装を剥がしたらヒョコッと軌道と敷石が現れるかもしれません。

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白鳥橋見学会は平日の2時間という時間帯であったが、事前申し込み不要で自由に見学できるため非常に多くの来場者でにぎわった(2024年10月、吉永陽一撮影)。

 白鳥橋の遺構は、見学会が終わると工事が再開して解体へと着手されます。東京都は保存の申し出を受け入れており、いくつか問い合わせがあるとのこと。錦町線遺構のように、末永く保存されることを願っています。

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