『スターウォーズ』がない世界って…「生みの親」の人生に大きく関与したイタリア車とは? 大事故が転機に
大ヒット映画『スターウォーズ』の生みの親であるジョージ・ルーカス。彼が映画監督を志したきっかけは、高校時代の愛車による大事故でした。しかも、そのクルマは彼の出世作の誕生にも関わっていたそうです。
ジョージ・ルーカスの人生変えた1台のクルマ
「遠い昔、はるか彼方の銀河系で…」というオープニングスクロールで始まる映画『スターウォーズ』は、宇宙の光と闇の攻防戦を描く壮大なSF作品でありながら、スカイウォーカー家の歴史をつづったヒューマンドラマでもあります。
そのような壮大なスペースオペラ、『スターウォーズ』シリーズの第1作目『新たなる希望』(エピソード4)が公開されたのは1977年のことです。この映画は新人監督であったジョージ・ルーカスが脚本・監督を手掛けたオリジナル作品で、当初こそ映画関係者から酷評されたものの、公開されると映画ファンのあいだで評判となり、最終的な興行収入は『ジョーズ』を抜いて世界最高を記録するまでに至ります(その後1997年の『タイタニック』が更新)。
ここまで大ヒットし、続編やさらには様々なスピンオフまで生むことになった偉大な作品『スターウォーズ』ですが、ひょっとしたら1台のクルマによって生まれていなかった可能性もあったのです。
1944年5月14日にカリフォルニア州モデストで文房具店を営む両親の間に生まれたジョージ・ルーカスは、母親に似て病弱で内気な少年として育ちました。そうした性格が災いして彼は学校でいじめの標的となります。幼いルーカスの慰めとなったのはコミック誌とテレビの冒険活劇でしたが、学校の勉強そっちのけで空想の世界に浸っていた彼はやがて授業についていけなくなりました。
そんな彼の転機は高校時代に訪れます。父親にイタリア製の小型車アウトビアンキ「ビアンキーナ」を買い与えられると、レーサーに憧れていた彼はクルマへとのめり込みます。
「ビアンキーナ」は当時フィアット傘下にあったビアンキ社の自動車部門が手掛けたコンバーチブルで、コンポーネントは同時代にデビューした2代目フィアット「500」のものを流用しています。フィアットグループの中ではアウトビアンキは上級ブランドということもあり、内外装は高級感あふれる上質なものに変更されていましたが、いかんせん排気量500ccの2気筒エンジンでは、性能はたかが知れていました。
自動車事故で大けがしたことが転機に
しかし、思春期のルーカスはそれでは我慢ができません。イタリアからパーツを取り寄せては、自宅のガレージにこもって改造に勤しみ、愛車が仕上がると地元の仲間たちと夜な夜なストリートをクルーズしたり、休日にはアマチュアレースに参戦したりして腕をふるっていました。
ただ、この「ビアンキーナ」が若きジョージ・ルーカスの運命を変えてしまいます。高校卒業を間近に控えた1962年6月12日、いつものように愛車を運転していると、側面から別のクルマに突っ込まれたのです。この事故で「ビアンキーナ」は横転大破し、彼はシートベルトが引きちぎれたことで車外へと投げ出されて全治4か月の大けがを負いました。
入院生活を余儀なくされたルーカスは、この事故ですっぱりとレーサーへの夢を諦めます。代わりに目指すようになったのが映像制作でした。幼い頃に好きだったテレビの冒険活劇、とくに夢中になった『フラッシュ・ゴードン』のようなSF作品を作りたいと考えるようになります。
こうして新たな夢を見つけた彼は、退院後、父親の反対を押し切って南カリフォルニア大学に進学。そこで映画を学ぶと在学中に『電子的迷宮/THX 1138 4EB』というアマチュア映画を制作します。この作品は1967年度全米学生映画祭グランプリなどを受賞したこともあって、1971年に『THX 1138』としてリメイクされ、ルーカスは商業映画監督としてデビューを飾りました。
この作品は商業的に失敗してしまいますが、これにより映画人として進退極まった彼は、次回作に自身の「ビアンキーナ」との日々をベースにした『アメリカン・グラフィティ』を制作。1973年に公開されると世界的な大ヒットを記録して「青春映画の金字塔」との評価を得るほどになりました。
『アメリカン・グラフィティ』の成功がなければ、おそらくルーカスは『スターウォーズ』を手掛けることのないまま映画業界を去っていたことでしょう。言わば「ビアンキーナ」は映画監督ジョージ・ルーカスを誕生させるきっかけとなったクルマでもあるのです。
10/20 19:12
乗りものニュース