助けに行ったら自分も漂流!? 終戦間際の日本に墜ちた米軍パイロット「救出作戦」の顛末 どうやって助けたのか
太平洋戦争末期、日本本土で不時着水した米軍パイロットの救出ミッションが展開されていました。今回紹介する1か所は終戦間際に行われた「最後の本土空襲」の出来事。危険極まりない敵地で米軍が強行した命知らずのミッションを追います
呉から大湊への回航中の駆逐艦が遭遇した「米軍の救助」
1945(昭和20)年、日本本土空襲の最中、米軍が敵地の日本に墜落した味方機の搭乗員をひそかに救出したミッションが戦闘報告書に記されています。本稿では米軍が行っていた救助任務の一端を垣間見せる2つのエピソードを紹介します。
まず、エピソードは日本軍の戦時量産型である松型駆逐艦「柳」から始まります。松型駆逐艦は1944(昭和19)年4月から竣工が始まり、14番艦の「柳」は45年1月18日に大阪の藤永田造船所で竣工しています。
艦長の大熊安之助少佐は駆逐艦の水雷長や艦長を歴任し、前年11月にマニラ湾で沈没した駆逐艦「初春」に続く艦長就任でした。水雷長は元「武藏」乗員の野村治男中尉、航海長に長山兼敏中尉がいました。この二人は同じ海軍兵学校第72期でした。
いずれもレイテ沖海戦と直後の戦いで乗艦が沈み内地に帰還したのち、新たな配属先が「柳」でした。
「柳」は広島・呉鎮守府の船籍となり、3月15日に松型6隻からなる第五十三駆逐隊へ編入されます。3月19日には土佐沖から出撃した米機動部隊による呉の初空襲がありましたが、無事だった「柳」は4月に「橘(改松型)」とともに、青森の大湊警備府に編入されることになります。
呉から大湊に回航するため、米機動部隊が活動する太平洋側ではなく、関門海峡を経由して日本海から大湊に向かうルートが選ばれました。2隻は5月13日に呉を出航します。。
米軍は何をやっていたのか? 大分県沖の戦闘
以下は米軍側の視点を中心に見ていきます。
この日、米第5艦隊第58任務部隊の艦載機が、沖縄戦の航空支援で九州全土と四国の航空基地を攻撃していました。軽空母「モンテレー」のF6F戦闘機(4機)からなる撮影班が、爆撃の被害状況を撮影するため宇佐海軍航空基地(大分県)の北東を飛行中に日本軍機と空中戦になりました。
ちなみに、米軍は太平洋戦争末期に写真撮影班を編成し、組織的に日本本土爆撃を撮影していました。当時、戦闘機のガンカメラで撮影された映像や写真は現在でも多く残されています。
この空中戦の直後、撮影班は瀬戸内海を航行する駆逐艦から対空砲火を受けます。続いて空母「ランドルフ」の撮影班4機が宇佐飛行場に向かう途中、撃墜された米攻撃機のパイロットと搭乗員が乗ったゴムボートを発見しました。宇佐飛行場の爆撃で「ランドルフ」から発進したSB2C急降下爆撃機が、エンジントラブルで不時着水していたのです。
撮影班が上空を旋回していると、西に向かう2隻の駆逐艦がゴムボートに銃撃を始めました。これが「柳」と「橘」でした。
このとき、撮影班と対空戦闘が発生し、「柳」は死傷者5名を出しています。その後、SB2Cの2人は重巡「アストリア」から飛来した2機のOS2U「キングフィッシャー」水上偵察機に救出されました。
前述の野村水雷長は、就役して間もない「柳」の乗組員にとって、貴重な実戦体験になったと証言を残しています。それは大湊に移動後、現実のものになりました。
米軍による「最後の本土空襲」の裏で
かねてより米海軍は敵地であっても味方機の搭乗員が生存していれば、可能な限り救出する体勢を取っていました。この後、大湊警備府で起こった米軍の救出劇は、瀬戸内海の事例よりも劇的な展開を見せます。
「柳」と「橘」が呉を経って2か月後の7月14日、米第3艦隊第38任務部隊が、東北から北海道にかけて空襲を行いました。この日は米戦艦による釜石艦砲射撃もあり、津軽海峡や青森湾では11隻の青函連絡船が沈没または大破しています。
津軽海峡の警備で箱館港にいた「橘」も沈没。北海道の福島沖にいた「柳」は被弾で航行不能になり、大湊に曳航されました。
さらに終戦目前の8月9日、大湊警備府が本格的な空襲に見舞われます。在泊艦艇で最も大型の機雷敷設艦「常盤」(日露戦争時の装甲巡洋艦)が直撃弾で大破、「柳」は応戦するも数発の至近弾で浸水しました。ただ2隻とも沈没は免れ海岸に擱座し、8月15日まで排水作業が続けられました。なお、翌10日も大湊空襲があり、これが米機動部隊による最後の大規模な日本本土空襲になりました。
9日の空襲では、空母「エセックス」から出撃したF4Uコルセアのパイロット、コーンビー中尉は爆弾を投下後にエンジン停止、大湊警備府から南に約8kmの陸奥湾へ不時着水しました。ゴムボートで脱出した彼は、様子をうかがいながら夜になって下北半島の中野沢付近に上陸し、近くの森で一晩を過ごします。
米軍による「最後の本土空襲」の裏で
翌10日朝、再び大湊空襲のため「エセックス」から飛来したF4Uにコーンビー中尉が自分の居場所を知らせると、連絡を受けた救助隊が昼に到着します。救助にあたったチームは「エセックス」のF4U(4機)と戦艦「ノースカロライナ」のOS2U(2機)でした。
ところが、救命ボートを投下しようとしたF4Uの1機が、操縦を誤って海面に墜落してしまいます。一方、泳ぎ出したコーンビー中尉に、着水したOS2Uのパイロットがスロットルを開けたまま片足を翼に出した姿勢で待機しています。そこで機体が波に煽られパイロットは海に投げ出されます。付近には大湊からの砲弾が着弾しており、このままでは救助はおろか、損害が拡大してしまいかねない状況でした。
そこへ直水した2機目のOS2Uがすばやく2人を救出し、ミッションは完了しました。米軍が大分県沖の対空戦闘と同じく救助に2機のOS2Uを用意したのは、こうした不測の事態に対応するためでした。
戦争末期に米軍が日本本土で危険な救出作戦を実施できたのは、制海権と航空優勢を確保していただけでなく、護衛戦闘機とOS2Uで救出班を編成できるだけの装備に余裕があったからといえます。
日本軍もソロモン諸島の戦いなどで、遭難した搭乗員を水上偵察機や飛行艇で可能な限り捜索・救出しています。日米戦について物量の差があげられます。単に兵器の量や性能だけでなく、運用の面でどのような影響があるか、これらのエピソードは教えてくれます。
10/16 16:12
乗りものニュース