米軍「あれにはやられた」 大戦末期の旧日本海軍がとった「奇跡の作戦」とは “強運艦オールスターズ”集結
制空権、制海権ともに失い、本土空襲も激しさを増していた1945年2月、南方戦線から日本本土までを決死の覚悟で資源を輸送した部隊がありました。その名も「完部隊」。本当に任務を遂行したこの作戦は、奇跡でもありました。
「完部隊」の意味するところとは
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年にもなると、旧日本軍は制空権、制海権のほとんどを失い、シーレーンはほとんど壊滅していました。しかし、無双状態だったはずのアメリカ海軍潜水艦隊司令官ファイフ大将をして「苦い経験であり、私には言い訳がない」と述懐させ、アメリカ海軍第7艦隊参謀にも「あれはすっかりやられた」と言わしめた旧日本海軍の作戦がありました。それは北号作戦で「奇跡の作戦」といわれます。
北号作戦とは、シンガポールなどの産油地から日本本土まで、遊兵化していた残存戦艦を用いて少しでも資源を運ぼうと企図されたもの。本土防衛のため、艦艇を集める意味合いもありました。
参加部隊は航空戦艦「日向」(旗艦)、航空戦艦「伊勢」、軽巡洋艦「大淀」、駆逐艦「霞」「初霜」「朝霜」の6隻で編成されました。「日向」「伊勢」「大淀」はいずれも航空機を運用できるスペースがありましたが、肝心の航空戦力はすでに枯渇し、そのスペースには揮発性の高い航空機用ガソリンのドラム缶が詰め込まれました。この3艦は“強運艦”とされていましたが浮かぶ火薬庫状態であり、正に神にも祈りたくなる状態でした。
この部隊を指揮する松田千秋少将は部隊名称を「完部隊」と呼称します。任務完遂の完から取ったとされますが、作戦会議で「伊勢」副長の小滝大佐が「『完』ですか。これで『完了』であってもらいたいものですな」と発言し、松田少将は「本当はそういう意味もある……」と、生還を期せないような無茶な作戦は今回で終わりにしたいという意味深な応えをしたという逸話もあります。
奇跡は偶然ではなかった
完部隊は長期の悪天候が予報されているタイミングを見計らい、1945年2月10日にシンガポールを出港。省エネの速力16ノット(約29km/h)で広島県の呉を目指しました。
日本のシーレーンは連合軍の監視下にあり、完部隊もすぐにイギリス潜水艦「タンタラス」に捕捉されます。11日に攻撃を仕掛けますが、日本軍機に撃退されました。以降12日からアメリカ海軍潜水艦が次々に接触を試みますが攻撃位置に付けず、わずかなチャンスで実施された魚雷攻撃もかわされました。
13日と14日にはアメリカ陸軍航空隊のB-24、B-25爆撃機が来襲しますが、2回とも悪天候に阻まれました。また13日にはアメリカ海軍潜水艦3隻が相次いで雷撃するもすべて回避され、「伊勢」は向かってくる魚雷を高角砲で撃破するという芸当も見せています。
連合軍が完部隊に差し向けた潜水艦は計26隻、航空機は計88機に及びましたが、フィリピン北西部のリンガエン湾にいたアメリカ海軍の戦艦4隻は沖縄侵攻支援準備のため出動せず、最後の攻撃となったのは16日午前5時の潜水艦「USSラッシャー」による6発の雷撃でしたが、完部隊はこれも回避したのでした。
こうして完部隊は2月20日、損害を受けずに呉へ入港したのです。全滅も覚悟していた海軍は文字通り狂喜乱舞しました。
アメリカ潜水艦隊司令長官のファイフ大将は「奇跡」の原因が完部隊の速度が速かったこと、日本海軍の艦艇が潜水艦のレーダー探知機を装備していたこと、そして悪天候が奏功したと分析しています。また運も味方したようですが、強運艦といわれるフネには共通して艦内に「よい空気感」があり、乗組員の技量、士気から艦内整理・整頓・清掃・清潔の「4S」までが良好で、奇跡は偶然ではないともいわれています。
強運艦は終戦を迎えられたのか
しかしこの「奇跡の作戦」の具体的成果といえば航空機用ガソリン1916t、ゴム3690t、錫2690t、タングステン308tなど6隻で合計8700tあまりの物資を運搬できたことであり、これは中型貨物船1隻分相当でしかありませんでした。
石油輸入量の経緯を見ると、1945年第1四半期に日本へ到着した石油の総量は前年後半の量を上回って、一時的に輸入量増加に転じています。これは完部隊のような戦闘艦による輸送の効果があったといえますが、絶対量は圧倒的に不足し、戦争経済に与えた影響は微々たるものでした。ただし完部隊によって油田開発技術員ら1150名が帰国できたことは特筆されます。
これら物資は4月に戦艦「大和」も参加した沖縄方面への航空作戦「天一号作戦」にも使われます。しかし再び奇跡が起こることはありませんでした。
「日向」と「伊勢」は燃料不足でもう動くことはできず、呉で対空浮砲台となります。1945年7月24日から28日にかけアメリカ海軍が呉を攻撃すると、格好の標的となった両艦は大破着底。「大淀」も大破転覆しました。
3隻の駆逐艦はというと、「朝霜」と「霞」は4月6日、天一号作戦で「大和」と運命を共にし、「初霜」は終戦2週間前の7月30日に舞鶴近郊で機雷に接触して沈没しています。いずれも戦争を生き延びることはかなわず、「完部隊」の「完」の意味を噛みしめたくなります。
06/28 16:12
乗りものニュース