「史上最悪の作戦」から80年 元日本兵の手記に見る「自動車部隊」 知られざる任務の実態とは

史上最悪の作戦といわれるインパール作戦から生還した祖父。遺した手記をもとに、自動車部隊として従軍したときの様子に前後編で迫ります。任務は武器弾薬から兵員、燃料、上官の現地視察に至るまでの「輸送」でした。

祖父は自動車部隊として従軍

 筆者(吉永陽一:写真作家)の祖父は、ビルマ戦線の激戦をくぐり抜け生還し、戦場での体験を何度も話してくれました。祖父は30年前に亡くなり、もう話を聞く事が叶いませんが、インパール作戦や死屍累々の白骨街道など、地獄の戦場といわれるビルマ戦線の体験談は、子供心ながらにショックで深く記憶しています。

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インパール作戦における、コヒマの戦い。茂みの中で日本兵を探すイギリス兵(画像:帝国戦争博物館/IWM)。

 祖父は1940(昭和15)年の臨時招集で輜重兵第一連隊留守隊に応召となり、自動車部隊の訓練を受けてトラックの運転手となったものの、いったんは除隊。1941(昭和16)年12月、二度目の招集で独立自動車第101大隊(101大隊)第三中隊へ編入しました。

 101大隊は宇品港を出港後に第15軍隷下となり、バンコクへ上陸後はビルマ(現・ミャンマー)へ物資輸送を開始。祖父は1942(昭和17)年のビルマ全土を掌握する攻略作戦、1944(昭和19)年のインパール作戦、その後の地獄の撤退戦を経て、1945(昭和20)年5月にタイへ撤退するまで、毎日のように死と隣り合わせでした。

 2024年はインパール作戦から80年の節目となります。この作戦は第15軍司令官牟田口蓮也中将が強行し、兵站と作戦計画をあまりにも軽視した無謀さから、今日でも「日本史上最悪の作戦」といわれています。

生存者の手記から実態に迫る

 ビルマとインドの国境には密林地帯のアラカン山系が待ち構えていました。インパール作戦の経緯など詳細は周知されているので省きますが、その実態は、食料などの兵站を軽視したうえに、50年に一度の酷い雨季と重なり、将兵は険しい山中で補給が途絶え、戦闘よりも極度の疲労と栄養失調のため死亡者が続出。戦闘不能に陥って攻略不可能となり、7月2日に作戦を中止しました。

 撤退時には連合軍の反攻と栄養失調で多くの兵を失い、およそ3万人が命を落としたのです。

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『ビルマ戦線 わだちの跡 独立自動車第101大隊』表紙。戦後40年を迎えるにあたり、大隊生存者が手記をまとめた。祖父は編集副委員長であった。手記は非売品だが国会図書館で閲覧できる(吉永陽一所蔵)。

 史上最悪の作戦の実態は、多くの手記やドキュメントで人々の知るところとなりましたが、祖父のいた自動車部隊がどのような状況であったかは、あまり知られていません。そこで、祖父を含む101大隊の生存者による苦闘の体験談をまとめた手記『ビルマ戦線 わだちの跡 独立自動車第101大隊』のページをめくり、自動車部隊の実態を追っていきます。

 101大隊は、武器弾薬、糧秣、燃料、兵員輸送から、牟田口廉也中将の現地視察まで、ありとあらゆる「輸送」に活躍しました。前線の後方ではビルマ側の国境付近、トンザン、テイデム、ヤザキョウ、タムなどの地点へ、主に第15師団(通称:祭)や第33師団(通称:弓)への輸送でした。

 自動車部隊は絶えず敵軍に狙われていました。兵士達から“街道荒らし”と呼ばれた英空軍のスピットファイアー戦闘機が頻繁に攻撃を仕掛けるため、日中は輸送できずに夜間の隠密行動を強いられていたのです。連日の輸送によって、昼間はトラック整備に追われ、十分な睡眠が得られぬまま、日没から夜明けにかけての夜間行動でした。

 部隊は毎日の睡眠不足と疲労によって、マラリヤ、脚気、下痢と、次々と病魔に倒れていきます。後方へ送られ死亡する者も増え、だんだんと数が減っていったのです。詳しくは、「乗りものニュース」の『祖父は「インパール作戦」を生き延びた〈前編〉 “泥と白骨の地獄”を駆けた自動車部隊の実態を追う』に掲載しています。

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