戦艦大和と同じ日に沈んだ「知られざる武勲艦」とは? 旧式だけど東奔西走! 時代に即した”大改造”も
1923年8月15日、旧日本海軍の軽巡洋艦「五十鈴」が竣工しました。太平洋戦争の開戦後に対空・対潜能力を強化。時代に即した改造が施され、旧式艦ながら第一線で活躍しました。
「長良型」軽巡洋艦の2番艦 旧式ながら第一線で活躍
今から100年以上前の1923年8月15日、旧日本海軍の軽巡洋艦「五十鈴」が竣工しました。太平洋戦争の開戦時には旧式化していましたが、時代に即したアップデートを受け、「縁の下の力持ち」として東奔西走。奇しくも戦艦「大和」が沈没した同日に、全く別の場所で戦没しています。どのような艦艇だったのでしょうか。
日本海軍は戦前、対米戦争の基本方針として、戦艦など主力艦の決戦前に駆逐艦や巡洋艦で夜戦を仕掛け、敵戦艦戦力を少しでも削る「漸減作戦」を想定していました。その要となるのが水雷戦隊で、その旗艦となる軽巡洋艦には、敵艦隊に肉薄できる速力や攻撃力が求められました。
「五十鈴」は、大正半ばの1920年代から合計14隻が建造された5500トン型と呼ばれる軽巡洋艦の1艦です。5500トン型は球磨型、長良型、川内型の総称で「五十鈴」は長良型の2番艦として計画されました。5500トン型は煙突が立ち並ぶ古めかしい外観が特徴で、太平洋戦争開戦時には旧式化していましたが、貴重な戦力として多様な任務に投入され、活躍しています。
「五十鈴」もその例にもれず、水雷戦隊旗艦だけでなく、対潜水戦部隊の旗艦も務めたほか、陸軍の兵士や装備を各地へ運ぶ輸送任務、さらには損傷した空母の救護など、多岐にわたって運用されました。艦名の「五十鈴」は、三重県の伊勢市を流れる五十鈴川に因んでいます。
竣工後は主に中国方面で活動し、太平洋戦争開戦後は香港攻略戦などへ参加。激しさを増すソロモン諸島の戦いにも投入され、ガダルカナル島・ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃も行っています。1943(昭和18)年11月にギルバート諸島のタラワ島にアメリカ軍が上陸した際は、陸軍部隊を乗せてタラワ島に向かおうとしますが、同島の陥落が決定的となったため、これは中止されています。
レイテ沖海戦「決死のオトリ任務」からも生還
「五十鈴」が外観を一新したのは太平洋戦争後半の1944(昭和19)年のこと。前年の12月5日、南太平洋のマーシャル諸島ルオットでアメリカ軍機の猛攻を受け大破した「五十鈴」は、トラック諸島(現ミクロネシア)で応急修理を受けた後、横須賀へ回航され、本格的な修理に入ります。
その時に、防空巡洋艦へと改装も行われ、主砲の14cm砲をすべて降ろし、代わりに12.7cm高角砲(高射砲)と25mm対空機銃を多数備えるようになりました。艦橋上部に防空指揮所を設け、大型の対空レーダー「二一号七型電探」を装備、さらに前部マスト頂部には高角砲などの射撃指揮を行う九四式射撃装置が設置されています。加えて後部マストには別の対空レーダー「一三号電探」や水上レーダー「二二号電探」を装備するなどして、それまでとは一変した性能を手に入れました。
また対潜兵装も増強され、潜水艦捜索用として水中探信儀(アクティブソナー)や水中聴音機(パッシブソナー)、爆雷投射機、爆雷投下軌条などが増設されました。連合軍の航空機や潜水艦による被害が増大する中、時代に即した姿に生まれ変わったのです。
こうして新たな能力を手に入れた「五十鈴」は、1944(昭和19)年のレイテ沖海戦に参加します。日本海軍はレイテ島へのアメリカ軍の上陸を阻止すべく、囮(おとり)の機動部隊(小沢艦隊)を日本本土から出撃させて敵の戦力を引き付け、その隙に主力部隊(栗田艦隊)や別動隊(西村艦隊、志摩艦隊)をレイテ湾に突入させ、艦砲射撃で上陸部隊を撃滅しようとしました。
「五十鈴」は囮艦隊となった機動部隊の1艦として、来襲する多数のアメリカ軍機と戦い、戦闘詳報によれば同海戦で13機(うち不確実4機)を撃墜したと記されています。機動部隊は囮の役目を果たしたものの、主力部隊は結局レイテ湾に突入せずに引き返し、作戦は失敗に終わりました。
レイテ沖海戦を生き抜いた「五十鈴」は、呉に帰着すると修理を受けた後、フィリピンへの物資輸送やティモールからの将兵の撤退などに投入されます。それらに従事するなかで1945(昭和20)年4月7日、ジャワ島の東方でアメリカの潜水艦による攻撃に遭い沈没。約22年の艦歴に幕を下ろしました。この日は沖縄への水上特攻に出撃した戦艦「大和」も、航空機の攻撃により鹿児島県の坊ノ岬沖で沈没しています。
08/15 06:12
乗りものニュース