「ギョーザ日本一」はバイク屋が作った!? 浜松のB級グルメと幻の名車「ライラック」の知られざる縁
消費量日本一の「浜松餃子」を支える餃子製造機の発明者は、幻の二輪メーカー「丸正自動車製造」の主任技術者でした。静岡県浜松市のB級グルメとオートバイとの意外なつながりを振り返ります。
ご当地グルメ「浜松餃子」に貢献したバイク技術者
餃子の消費量日本一を巡ってバチバチのライバル関係にある静岡県浜松市と栃木県宇都宮市。2023年は3年ぶりに浜松市が日本一の座を奪還したことで話題になりました。
浜松餃子の元祖と言えば、1953年創業の石松餃子です。キャベツの甘みたっぷりの餡をモチモチした柔らかい皮で包み、焼き上げた餃子を皿に丸く並べて、真ん中に茹でもやしを添えるのがこの店の特徴で、浜松市内にある専門店の多くが石松餃子に倣ったスタイルで餃子を提供しています。
いまや全国的に知られるようになった浜松餃子ですが、同市の餃子消費量が多い理由のひとつに挙げられるのが、早くから機械化による大量生産を実現したことだとか。ただ、そのきっかけとなる餃子製造機を発明した人物が、実はオートバイの元技術者だということはあまり知られていません。
その人こそ、「ライラック」のブランド名で知られた丸正自動車製造の元技術者、溝渕 定さんです。
丸正自動車製造とは、かつて浜松に存在した中堅バイクメーカーですが、すでに倒産・消滅から60年近くが経過しているため、バイク好きであってもその名を知らない人は多いでしょう。しかし同社は、ユニークな設計と高い技術力で一時は全国的に名声を得ていたこともありました。
本田宗一郎の愛弟子が立ち上げた二輪会社
そもそも、丸正自動車の創業者は伊藤 正さんです。彼は、世界的企業ホンダの創業者である本田宗一郎さんが戦前に経営していた自動車整備工場「アート商會浜松支店」の従業員でした。
本田宗一郎さんの4番目の弟子として自動車の技術を身につけると、1938年に丸正商会として独立。終戦後、ホンダの自転車補助エンジンの好調に刺激を受けて、社名を丸正自動車製造へと改め、二輪車製造へと進出しました。
そんな丸正自動車のバイク開発で中心的役割を果たしていたのが、若き技術者の溝渕さんでした。当時の二輪用チェーンの品質に不満を持っていた彼は、シャフトドライブの採用を伊藤社長に進言したことで、丸正の作るバイクのほとんどがシャフトドライブ車になります。
こうして1950年に誕生した初の市販車「ライラックML」は、ライバルメーカーの多くが2ストロークエンジンを採用していたのに対し、4ストロークの150cc単気筒サイドバルブエンジンを搭載し差別化を図っていました。
扱いがラクで静粛性が高い4ストロークエンジンを搭載し、シャフトドライブ駆動のためチェーン・メンテナンスも不要だったことで、ライラックMLは発売とともにユーザーの心を掴みます。
これを受けて翌1951年にはOHVエンジンに換装した「ライラックLB」、1952年にはスチールパイプ・フレームとプランジャー式リアサスペンションを採用した「同KD」、そして1953年には排気量を200ccへと拡大した「同KE」と、改良型を相次いで発表していきました。
なかでもライラックKEは名古屋TTレースで優勝を飾り、高い技術力をアピールします。その一方で溝渕さんは新市場を開拓するため、女性でも乗りやすい小型バイク「ベビーライラックSF」を開発、これまた大成功を収めました。
レースで本命ホンダに勝利! でも企業としてはダメだった
勢いに乗る丸正自動車製造は、1955年に開催された第1回浅間高原レースで、ホンダ優勢の下馬評を覆して250cc単気筒エンジン搭載の市販車改造レーサー「ライラックSYZ」で優勝を勝ち取ります。これが追い風になって販売台数は飛躍的に伸びました。
その後、1959年には丸正を代表する250cc縦置きVツインエンジンを搭載した「ライラックLS18」が誕生。翌1960年にはLS18をカフェレーサーに仕立てた「ライラックLS38ランサーマークV」を追加し、バイクファンを熱狂させたのです。
しかし、国内の二輪業界が淘汰の時代に入った1960年代、丸正のバイクは高品質ゆえの高コスト体質だったことに加え、経営の甘さから財務体質が急速に悪化。一時はスズキとの提携が持ちかけられたものの、丸正社長である伊藤さんは師である本田宗一郎さんに忠義立てをして断ってしまいます。さらには、大手自動車メーカーにミニバイクをOEM供給するハナシも破談となり、丸正自動車製造はあえなく倒産してしまいました。
その後、裁判所からの和議によりホンダの下請けとなった丸正でしたが、伊藤さんはバイクへの夢を捨て切れず、北米市場での再起を目指して、水平対向2気筒エンジンを搭載した大型バイク「ライラックR92」を開発します。
しかし、債権者からの執拗な取り立てと輸出仲介者が法外な手数料を要求したことで計画は頓挫し、1966年末に2度目の倒産を余儀なくされました。
丸正自動車製造が倒産した影響で、主任技術者だった溝渕さんは、ブリヂストンのバイク部門に再就職。その後、台湾へと渡ります。そこで二輪産業の育成に貢献した彼は、帰国後に浜松で人気だった餃子に注目し、餃子製造機を発明したのです。これによって浜松市民の旺盛な需要を賄えるようになり、いつしか浜松の餃子はご当地グルメのひとつに数えられるほどになりました。
名物の餃子にバイク技術者の貢献があったことは、いかにも「オートバイの街・浜松」らしいエピソードだと言えるでしょう。もし、浜松を訪れ餃子を食べる機会がありましたら、幻の名車「ライラック」がこの地で作られていたことを思い出してみてください。
08/25 18:12
乗りものニュース