「日本一の戦闘機作れないなら、サーキットで世界一に!」理系のスーパーエリートが手掛けた日本の名車3選

第二次世界大戦の敗戦によって飛行機開発の夢を閉ざされた日本の航空技術者たち。戦後、そんな彼らが職を求めたのが黎明期の自動車産業でした。なかでも代表的な航空技術者3人と、彼らの手掛けた名車を紹介します。

「日本車の世界一」はGHQが航空禁止令を出したから?

 日本が自動車の生産台数で世界一になったのは、今から44年前の1980年12月のことでした。1980年代は日本車の進化が著しく、それまでの経済性と品質の良さ、安価な価格に加えて、ハイテク化が進んだ時期でもあります。

 この頃の日本車では「DOHC」や「ターボ」などに加えて、「4WS」「フルタイム4WD」なども大衆車にまで普及するようになっています。その結果、1989~1991年の「日本車ビンテージイヤー」には、日産「スカイラインGT-R」、トヨタ「セルシオ」、ホンダ「NSX」など世界に類を見ない高性能車が次々と誕生。これにより、生産台数だけでなく性能面や商品力でも日本車は世界一になったといえるでしょう。

 こうした日本車の躍進は、いくつもの幸運に恵まれた結果でした。冷戦期における日本の重要な外交体制となった、アメリカに安全保障を依存しながら経済成長と産業育成を最優先させるという、いわゆる「吉田ドクトリン」による国家戦略。これにより、自動車産業は狭い市場ながら最盛期には11社が熾烈な販売競争を繰り広げ、そして石油危機が追い風となって日本のお家芸であった小型車が世界的に脚光を浴びたことなどが理由として挙げられます。

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旧日本海軍の艦上偵察機「彩雲」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。

 とはいえ、一番の理由は第二次世界大戦の敗戦によるGHQの航空禁止令により、優秀な航空技術者の多くが自動車産業へ流入したことでしょう。

 理系のスーパーエリートであった彼らの多くは終戦時に20~30代、ベテランでも40代でした。航空機開発の未来が絶たれたことで、多くは自動車産業へと職を求め、今日の礎を作ることになるのです。今回はそのような航空技術者出身の技術者3人と彼らが開発の中心となった名車を紹介します。

旧軍の超速偵察機と国民車「テントウムシ」との意外な縁

 大戦中、中島飛行機(現SUBARU)で偵察機「彩雲」用に「誉」エンジンの改良を担当していた設計技師の百瀬新六さんは、中島飛行機伊勢崎工場を引き継いだ富士自動車工業でバスのボディ設計に従事します。その後、同社が富士重工に改組すると、日本初のモノコック構造の乗用車「スバル1500」を手掛けますが、メインバンクの反対により市販化は実現せずに終わります。

 1955年に通商産業省(現・経済産業省)が国民車構想を打ち出すと、富士重工はこれに応じ、百瀬さんを中心とした開発チームが軽自動車「スバル360」を完成させました。

 同車は、航空機技術を応用した超軽量設計によるモノコックボディを採用することで、わずか360ccの排気量で小さなボディながら大人4人が乗れるというのが特徴でした。

 1958年に誕生した「スバル360」は、当初FFレイアウトを検討していましたが、FF車に不可欠な等速ジョイントの開発が難航するとの判断からRRレイアウトを採用しています。

 優れた経済性と実用性、乗り心地の良さから「スバル360」は発売とともに人気を呼び、フォルクスワーゲン「ビートル」、すなわち「カブト虫」というニックネームに倣って「てんとう虫」なる愛称で呼ばれるようになりました。

 のちに百瀬さんは水平対抗4気筒エンジン、FFレイアウト、四輪独立懸架サスペンションを採用した画期的な小型乗用車の「スバル1000」を開発。のちに登場する富士重工の乗用車に多大な影響を与えています。

未完の戦闘機「キ94」の技術者が「カローラ」の生みの親

 東京帝国大学(現・東京大学)を卒業後、1939年に立川飛行機へ入社した長谷川龍雄さんは、陸軍の対爆撃機用戦闘機「キ94」の設計主務を担当しています。当初は串型、双胴、双発の特異な設計(キ94-I)で設計されましたが、パイロットが脱出する際の安全性やエンジンの生産性の問題から開発中止となり、1944年からはキ87の設計を流用し、機密室を備えた単発戦闘機(キ94-II)として開発が進められました。

 戦後、長谷川さんはトヨタ自動車に入社。小型トラックの「トヨエース」を手始めに様々なクルマの開発責任者を歴任しています。なかでも通産省の国民車構想に影響を受けて1961年に誕生した「パブリカ」は、BMW「700」を手本に駆動方式をRRからFRへと変更し、軽量設計の小型車としてまとめられていました。

 しかし、同車はその質素さから大衆に受け入れられなかったため、その反省に立って大衆の上級志向に応じた量販車として「カローラ」が開発されたのです。同車は1966年に登場すると商業的に大きな成功を収め、以降12世代に及ぶ世界的なベストセラーにまで昇華しています。

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「パブリカ」の反省に立って商品力を向上させた初代「カローラ」(山崎 龍撮影)。

 1942年9月に東京帝大を繰り上げ卒業した中村良夫さんは、戦時中は中島飛行機でエンジニアを務めるのと同時に、陸軍中尉として陸軍航空技術研究所や陸軍航空審査部に属し、超大型重爆撃機「富嶽」やジェット戦闘襲撃機「火龍」などの開発に携わりました。

ホンダ第1期F1の立役者は航空エンジンのスペシャリスト

 戦後、中村さんは日本内燃機製造(のちの東急くろがね工業、現・日産工機)を経て、1958年にホンダへ入社します。

 当時のホンダにはオートバイの技術者しかいなかったため、入社早々、四輪開発部門の責任者を任せられた彼は、S500やT360などの市販車開発の指揮を取る一方で、1964年に始まったF1参戦の責任者にもなります。

 1965年シーズンは一時、F1チームの監督を外れるものの、最終戦のメキシコGPで中村さんは復帰。海抜2000mを超える高地でのレースに、航空機エンジニアだった彼の知見が生かされ、ホンダF1の初優勝を実現しました。

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第1期ホンダF1「RA272」。ホンダはこのマシンで1965年のメキシコGPで初優勝を飾った(画像:モビリティランド)。

 1966年に中村さんは再び市販車開発に戻るも、1967年に三度F1の監督に復帰。しかし、1968年にホンダがF1から撤退すると社長の本田宗一郎さんとの確執から、そのまま欧州駐在員としてヨーロッパに残りました。

 今回は3人の航空畑出身のエンジニアを紹介しましたが、彼ら以外にも戦後、航空機から自動車へと活躍の場を移した技術者がたくさんいました。彼らの存在がその後の日本車の発展の基礎を作ったといっても過言ではないでしょう。

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