本郷和人 武田信玄最大の失敗「疑いのない後継者」長男・義信の自死はなぜ起きたのか…「ただの一武将」四男・勝頼が継いだことで武田家には軋轢が【2024年上半期BEST】

東京大学資料編纂所・本郷和人先生が分析する武田信玄「最大の失敗」とはーー(写真提供:Photo AC)
2024年上半期(1月~6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年01月31日)

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2023年に放映された大河ドラマ『どうする家康』。家康は当時としてはかなりの長寿と言える75歳でこの世を去っています。「家康が一般的な戦国武将のように50歳前後で死んでいたら、日本は大きく変わっていた」と話すのが東京大学史料編纂所・本郷和人先生です。歴史学に“もしも”がないのが常識とは言え「あの時失敗していたら」「失敗していなければ」歴史が大きく変わっていたと思われる事象は多く存在するそう。その意味で「武田信玄のある失敗」が歴史に与えた影響は絶大だったそうで――。

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信玄もう一つの失敗は「北信濃10万石に10年も費やした」こと…信玄・晩年の領土規模<約60万石>を信長は20代で達成していた

あらゆる面で秀でていた信玄

武田信玄は、戦国大名として非常に優秀な人でした。彼の優秀さはまず内政能力に見られます。

彼は土木工事ができた。たとえば甲府を流れる釜無川では、21世紀となった今も、彼が築いた信玄堤が有効に機能しています。また法も定めています。「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」という法を定め、きちんとそれに則った政治を行うという姿勢を示している。たとえば同時代の謙信はそうしたことはやっておらず、やはり信玄は優れた政治的手腕の持ち主だったと思います。

軍事にも優れていましたが、外交能力も非常に高い。外交能力の高さは、彼が率いる軍勢の兵隊数が多いところに現れています。たとえば信玄が西に軍隊を移動させたとして、その留守を越後の上杉謙信に攻撃されるとまずい。そこで普通なら、今の松代城、当時の海津城に、ある程度の防衛部隊を配置しておくことになります。

ところが信玄の場合、越中の一向一揆衆と連絡をとって外交を展開し、もし謙信が武田領を攻めようとしたら、その空白を突いて一揆衆が春日山城を攻める状況をつくりました。それで謙信の足止めを行ってから、西に進出していく。結果、防衛にそれほど兵を割かずに、軍事活動を行うことが可能になるわけです。

実際に海津城を任されていたのは春日虎綱という重臣。彼は高坂昌信という名前でも知られていますが、かつての武田信玄の男色相手でもありました。この人が海津城に入り、上杉謙信の襲来に備えていたわけですが、最後に信玄が行った西上作戦では、彼もちゃんと参加しています。信玄の外交が功を奏していたわけです。

ついでに言うと、武田勝頼による「長篠の戦い」(1575)のとき、虎綱は上杉の備えとして海津城を動けなかった。それがために、虎綱はほかの宿将と異なり、長篠で戦死していません。

信玄の失敗「長男を自殺に追い込んだこと」

兵の数は、総合力のバロメーターでもあって、たとえば農業を疎かにしてしまうと、兵を食べさせることができないし、そもそも人口が増えない。多くの兵力を動員できる信玄は、それだけ優秀な戦国大名だったと言えます。だから彼の失敗と言ってもそれは、「強いて欠点をあげつらえば」という話になるでしょう。

その意味で、武田信玄の失敗。

『「失敗」の日本史』(本郷和人:著/中公新書ラクレ)

彼のつまずきは、長男である義信に自殺を命じなければならなくなったことだと思います。それは信玄が、今川領を攻めようと考えたために起こった事態でした。

当時、武田と今川、そして北条は、いわゆる三国同盟を結び、お互いに戦わないという「相互不可侵」を合意していました。この同盟が、武田、今川、北条が共栄する基本体制になっていたのです。ところが「桶狭間の戦い」(1560)で織田信長がジャイアントキリングを達成し、今川義元が倒されてしまった。

戦である以上、なにが起こるかはわからない。しかし仮に今川が負けることはあり得たにせよ、まさか大将の義元が戦死してしまう事態は、本当に想定外の番狂わせでした。そのため今川の威信は大きく傷つき、それまで従っていた連中も、動揺する。要するに国の根幹が揺らぎ始めたわけです。

そこで信玄は動揺に乗じ、三国同盟を破棄してでも今川領を攻めようと考えた。そのときも彼は得意の外交を展開しており、その相手が新興勢力の徳川家康です。

家康は今川の武将として扱われていたのですが、桶狭間のあとに岡崎に帰ると、苦労して三河を平定し、独立した戦国大名になっていた。

信玄はその徳川家康と「ともに今川を攻撃しよう。自分は駿河を攻めるから、君は遠江を攻めろ。遠江と駿河で今川の領地を分けようじゃないか」と提案した。そして両者は一度に東と西から侵攻し、今川はたまらず、あっという間に領土を奪われてしまうことになります。

そしてこれを実現するにあたって反対したのが、武田家の跡取りだった武田義信でした。

長男・義信こそ疑いのない信玄の後継者だった

彼は信玄の長男で、正室の子どもでもあります。

信玄の正室は京都の三条という貴族の家のお姫様。もっともお姫様と言っても、当時は食うや食わずの姫ですが、それでも左大臣の格の家の方が京都から甲斐まで嫁いできた。

その正室が産んだ長男ということですから、義信は誰の目からも疑いのない信玄の後継者でした。信玄もそのように遇しており、基本的にはそれでまったく問題がなかった。

しかし義信は今川家から嫁をもらっていて、夫婦は大変仲がよかったらしい。だから妻への愛情のために、自分の父親が妻の実家を侵略することに反対した、というのも当然あるでしょう。

さらにより大きな意味として「三国同盟は順調に機能している」と義信が考えていた、という背景があります。この同盟があることで各勢力が背中を気にせずに済む。今川は西を攻め、北条は関東を守る。武田は信濃を支配下に収め、さらにその先に上杉謙信と戦うことができた。

上野へ兵を出した場合、今の群馬県のあたりで、北上する北条の勢力とバッティングする可能性はあったけれども、それでも現状、武田家の軍事活動は円滑に進んでいる。だから三国同盟を破棄してまで今川を攻める必要はないと反対したのです。

一方で、この時期の信玄がなにを考えていたのかというと、彼は海が欲しかったのではないか。海、すなわち港。信玄が港を手に入れるにはふたつの道がありました。

ひとつは川中島、今の長野市周辺から思い切って北上し、謙信の春日山城を奪取する方法です。そうすれば直江津の港が手に入る。当時の海運は、波の穏やかな日本海側が中心ですから、武田家としてはそれがベスト。

しかし謙信のいる春日山城を奪うのは難しい。であれば駿河に出て、今の清水港、当時の江尻の港を手に入れる方法がありました。ただし太平洋側は海が荒く、難船のリスクが高いため、交易の利益は少ない。だからベストとは言えない。

ベストの港が手に入るのが、謙信のいる春日山城。ベストではないが、侵攻が容易な駿河。どちらがいいのか秤にかけ、信玄は恐らく、三国同盟を破棄してでも江尻を取ることを選択したのだろうと思います。

武田家の内部で生まれた軋轢

実際、駿河湾を手に入れる策は計画的に進められていたようで、伊勢国から人材を呼び寄せています。

というのも、武田は水軍、今でいえば海軍を持ったことがない。そのため船の扱いがわからないので、伊勢で船の扱いに長じた武士をヘッドハンティングした。

それも傭兵ではなく、きちんと領地をあげるから武田に骨を埋めてくれ、というかたちで人材を招き、武田水軍まで創設しています。そこまでやっていますから、よほど信玄は海が欲しかったのでしょう。

ちなみにその武田水軍は、後に徳川家康に仕えて徳川水軍となり、旗本として存続していくことになります。

しかし義信の判断としては、海はあきらめても三国同盟を守っていったほうがお互いのためで、よりメリットが大きいと考えていたのだろうと思います。こうして父と後継者は対立し、時間はかかりましたが、最終的に信玄は義信に自害を命じることになります。

もちろん、義信はただの個人ではありません。家来の中には義信という人間を支持し、彼についていたグループもいた。また、義信の「三国同盟を守ろう」という方針を支持していた人たちもいたはずです。

「義信派」の有名な武将としては飯富虎昌がいました。この人は義信の守役で、「武田の二十四将」としてすぐ名前が出てくる山県昌景の実兄です。信玄が信濃の村上と戦ったときに戦死した板垣信方と甘利虎泰、そして飯富虎昌の3人が武田の重臣の代表だった時代があるのですが、虎昌が義信路線に賛成したために、信玄は彼も誅殺してしまいました。

義信を自害させたことは、武田家の内部ではそれほどの軋轢を生んだ。だから信玄は義信自害の後、家臣たちに「間違いなく武田信玄に忠節を誓います」という誓いの言葉を書かせて集めています。その誓詞が今の信州、上田市の生島足島神社にたくさん残っている。

昨日まで同僚だった勝頼が…

後継者を自害させてしまった信玄は、新たな後継者を決めます。そこは彼の偉いところで、「自分が死んだ後のことは知らない」という謙信とは違い、きちんと新たな後継者を定める。それが四郎勝頼です。

勝頼は側室が産んだ子どもです。正室の産んだ次男と三男は体が弱くて向かないということで、四男が指名されることになりました。

この勝頼、それまで母方の諏訪姓を名乗っていました。諏訪の家はもともと、勝頼の祖父に当たる人を信玄が滅ぼしていて、その娘を自分の側室にしていたわけです。

戦国ならではのハードな状況ですが、それで生まれた勝頼に諏訪家を継がせていました。つまり勝頼は、もともと諏訪家の主として生きていくことが義務づけられており、彼は本来、兄の部下、武田の一武将として生きる運命だったのです。

ほかの武将たちにしてみれば、昨日までは同僚だった人物。その同僚がある日から自分たちの主人になると聞いたら、恐らく複雑な気持ちになったことでしょう。

まして、信玄は偉大なカリスマ。いつの時代も同じですが、偉大な人物が亡くなると、後継者はその人と比べられて、なにをやってもしょぼく見えてしまうことになる。これを回避するためには、徳川家康が設計したように、システムに移行してしまうしかないでしょうね。

徳川幕府では、それぞれの能力はあまり機能する必要がありません。たとえ無能だろうが長男が跡を継ぐようにシステム化することで、安定を実現していました。

たとえば二代将軍秀忠は優秀な人物でしたが、その子は三男・国松のほうが優れているという風評があった。しかしシステムの定めとして、次男・竹千代が後継者となり(長男は早逝)、三代将軍家光になりました。

人物単位で抜擢するか。システム化して、無条件に長男が継ぐと決めておくか。これはなかなか難しい問題です。

信玄にとって交易の最大の目的は

結果として、武田家は勝頼の代でダメになってしまいました。信玄もそこまでは計算できなかったのではないでしょうか。あるいは、それほどまでしてでも、海が欲しかったのかもしれません。

海を得たからといって、裏通りの太平洋側交易でどれだけ富を手に入れられたかというとわからない。

信玄にとってみると交易の最大の目的は、鉄砲の採用にあったのだと思います。

鉄砲を用いるためには火薬が必要。黒色火薬は木炭と硫黄と硝石からつくられるのですが、その硝石は日本では採れません。つまり外国から輸入するしかないのですが、港がない状態で商人と交渉しても足元を見られて、不利な条件でも買わざるを得ない。しかし自分自身が港を持って貿易を行えば、恐らく堺の商人から買うより、有利な条件で硝石を入手できる。つまり鉄砲がより使えるようになる。

ただ武田家の歴史では、港を得たあとも、鉄砲は主力武器として出てきませんでした。それを考えると、莫大な犠牲を払って港を得て、水軍までつくって海に乗り出したのに、交易も水軍も有効に機能することはなかった、という気がしないでもない。

そこはやはり信玄の失敗だったのかもしれません。

※本稿は『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

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