本郷和人 於愛の方の死後に秀忠を養育し、大坂冬の陣の和議にも貢献した才女「阿茶の局」。家康が別の側室に「茶阿の局」と似た名を付けていた理由とは【2023編集部セレクション】
2023年下半期(7月~12月)に配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします。(初公開日:2023年9月28日)
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松本潤さん演じる徳川家康がいかに戦国の世を生き抜き、天下統一を成し遂げたのかを古沢良太さんの脚本で巧みに描いて話題となったくNHK大河ドラマ『どうする家康』(2023年)。歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生が解説します。今回は「女性の名前」について。この連載を読めば歴史がさらに楽しくなること間違いなし!
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於愛の方が亡くなって残念だけれど
前回、広瀬アリスさん演じる於愛の方が亡くなりました。
ユーモラスで笑顔を絶やさない、その裏に秘められた複雑な感情についても描かれましたが、ドラマにあたたかさをもたらすような存在だっただけに、残念です。
でも悲しんでばかりもいられない。
というのも、ぼくには「いよいよ、あの人が登場するだろう」と心待ちにしていた女性がいるのです。それが阿茶の局(あちゃのつぼね)。
彼女は於愛に代わって秀忠を養育し、家康の後半生、ほぼ正室の扱いを受けたたいへんな才女。今回のドラマではまだ登場していないながら、松本若菜さんが演じることが発表されています。
「阿茶の局」と「茶阿の局」?
彼女は武田家臣の娘。同じく武田の武士であった神尾忠重という人物に嫁ぎ、男子2人を儲けますが、夫とは死別します。そののちに家康と結ばれ、戦場にも付き従ったそうです。
家康の子を生むことはありませんでしたが、奥向きのことは全て任され、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、淀殿の妹である常高院や、淀殿女官筆頭の大蔵卿局らと会談して和議の成立に尽力しました。
いま学界では、彼女のように活躍した女性を「女性官僚」として積極的に捉えようとする動きがあるようです。
ただし、ここで気をつけておきたいのは、家康の側室には茶阿の局(ちゃあのつぼね)、という女性もいたということ。
彼女は家康の6男・松平忠輝と、7男・松平松千代を産んでいます。茶阿の局は1550年頃の生まれだそうですが、阿茶の局は1554年で4歳の年少。つまりは同時期に家康と寝所をともにしたといえそう。
なぜ家康はこの名前を付けたのか
そんな状況で、側室のひとりに阿茶、別のひとりに茶阿、という名称を与えますかね…。どういうつもりか、家康に詰問したくなりませんか?
なお、これが織田信長だったなら「まあ、シャレかな」と受け入れられるかもしれません。何しろ彼は6男と7男に「大ぼら」「小ぼら」と名付けをするような人ですから。
でも、そこは真面目な家康。いったい何を考えていたのでしょうか。
ちなみに阿茶の局はもともと「須和」、茶阿の局は「久」という名だったそうですから、他の側室のようにお須和の方、お久の方でよさそうなものです。
もしかすると、須和や久というのは後世の名付けで、2人は実名が「茶」だったのかもしれません。お茶は当時大人気でしたし、この字が名前として盛んに用いられていたとしてもおかしくありません。それで1人は阿茶、1人は茶阿にした…とか。
ねねさんの本名は「ね」?
当時、女性の名前は漢字一字、かな一字が珍しくありませんでした。
『どうする家康』で時代考証を務める小和田哲男先生は、彦根の講演で「おおむね秀吉の奥さんは『ねね』さんと呼ばれていた。でも史料を見ると『おね』が正しい。大河ドラマでも『おね』と呼ばれる機会が増えてきたが、あれはぼくが指導した」と仰っていましたが、実際の彼女の本名は「ね」なのではないでしょうか。
それを呼びやすいように「お」を付けたり(江戸時代の、おたかちゃん・おくまちゃんの類い)、字を重ねたりしたのが『ねね』や『おね』。
室町時代後期の朝廷の女性のことがよく分かる『お湯殿の上日記』には「めめの局」という人が出てきますが、あれも「め」さんでしょう。
居所が呼称になることも
茶の湯が盛んだったので「茶」という名前がはやったのかも、と書きましたが、その意味では浅井茶さんの存在を忘れることはできません。
ドラマでは前回、衝撃的な登場をはたしました。北川景子さんが演じる茶々こと、のちの淀殿です。
彼女は「茶々」と字を重ねていますが、そもそもは「茶」でしょう。ちなみに有名な「浅井三姉妹」の妹たちは「初」に「江」。
なお、茶々さんは「淀殿」と呼ばれたのは、彼女が懐妊したとき、秀吉から産所として淀城をプレゼントされたため。居所が呼称になったわけです。
なお、淀殿とともに秀吉に愛されたという京極竜子(きょうごくたつこ)さんは松の丸殿。彼女の居所は、秀吉が居城としていた伏見城の松の丸です。秀吉が大坂城にいたときは西の丸に屋敷を与えられていたので、西の丸殿とも呼ばれていました。
同じく秀吉の側室で、織田信長のお嬢さんは三の丸殿。これは伏見城かな。
いまこう書いていて気がついたのですが、「西の丸に屋敷を」というのですから、秀吉は大奥のように、女性たちを一ヶ所に集めていなかった、ということにもなりますね。もちろん表向きはどの屋敷も男子禁制でしょうが、これなら他の男性がこっそり密会…ということもあり得るのかな。
10/08 11:30
婦人公論.jp