本郷和人 なぜ北条氏政は最後まで豊臣秀吉に頭を下げられなかったのか…その背後に浮かび上がる鎌倉時代の北条氏と戦国時代の北条氏の「ある類似点」【2024年上半期BEST】
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鎌倉時代と戦国時代の「北条氏」
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれた鎌倉時代の北条氏は、もともと伊豆韮山の小さな武家でした。
それが頼朝について鎌倉に移り、頼朝の死後、幕府内部で抗争を繰り広げながら、まず武蔵国をがっちりと手に入れる。今で言う東京都と埼玉県です。そして相模国、今の神奈川県に地盤を築きました。
さらに勢力を伸ばして北に上がり、上野国、つまり群馬県を押さえる。
ここで群馬県近辺の路線図を考えていただきたいのですが、高崎では上越線と信越線に分かれています。つまり新潟に抜けるか、軽井沢を通過して長野に進出するかという方向が見えてくるわけですが、ここまで来たところで鎌倉北条氏は滅びてしまいます。つまり、この時の北条氏は房総半島には進出していません。
そちらには向かわず北に上がるわけですが、実は同じ経過を戦国時代の北条氏もたどっている。
戦国時代の北条氏は、後の北条氏ということで「後北条氏」と呼ばれますが、こちらも伊豆国韮山から出てきています。だから韮山城は最後まで後北条氏の城になるのですが、ただし、初代の早雲はもともと伊勢新九郎、後に伊勢宗瑞(そうずい)で、それが早雲、早雲庵と名乗っていただけ。
二代目の氏綱が小田原城を手に入れたあたりで「俺たちは韮山出身だし、同じ地域から出た北条姓を名乗ろう」となり、北条の名を称するようになったわけです。
たどった「経過」は似ていた
早雲の代で、まず相模をほぼ制覇し、息子の氏綱の代では完全に支配する。そして三代目氏康のときに武蔵国で一番の城、川越城を落として武蔵を手に入れた。そして群馬にも影響力を及ぼしていたのですが、四代目の氏政は父の業績を踏まえたうえで、群馬を手に入れた。
おおよそ今の神奈川県、東京都、埼玉県、群馬県までを支配下においたわけです。そしてやはり後北条氏も、房総半島へは本格的に進出しなかった。そこは共通しています。
なぜかと言えば、房総との間には関東一の川、利根川が流れているのですね。スケールは違いますが、中国の『三国志』でも「赤壁の戦い」(208)で負けた曹操が「ここから先はもういい」と、長江を越えることを諦める。そして長江を国境にした国を築きます。
中国の人が日本に来て瀬戸内海を旅行した際に「なんだ、日本にも長江と同じくらい大きな川があるじゃないか」と言ったとかなんとか、聞いたことがありましたが、スケールこそ違えども、長江のように利根川が進出の壁となり、国境になったわけです。
それを家康が川そのものをぐぐっと曲げ、今の鹿島灘に注ぎ込むようにする。それまでの江戸は利根川の影響でたくさんの人が住むことのできない湿地帯でしたが、家康が大河の流れを変えたことで、居住可能にした。ただし井戸を掘っても海水しか出なかったので、井の頭から水を引いてきた。
小説家である門井慶喜先生の『家康、江戸を建てる』(祥伝社)に描かれていますが、工事に当たったのは伊奈家です。それも当主四代にわたって立ち向かった大工事でしたが、その工事以前の利根川の流れは、大変に大きかったわけです。だから鎌倉時代の北条氏も、戦国時代の後北条氏も、川は越えずに北へ北へと上がっていった。
もともと同じ伊豆出身でその姓を名乗ったくらいですから、後北条氏は、鎌倉の北条氏のことを強く意識していたことでしょう。しかも同じように関東を支配していったことで、さらに「歴史」というものを受け止めていたように思います。
豊臣秀吉と後北条氏の対立が意味したもの
もともと五代、一世紀にもわたってがんばってきた北条氏です。それだけでも十分に「豊臣秀吉のような、どこの馬の骨かわからない農民上がりに、頭なんか下げられるか」というプライドがあったでしょう。
加えて「鎌倉時代から武士の本場である関東の覇者である」という歴史認識、そして「武士の伝統を受け継ぐのは俺たちだ」という自覚も大きかったのではないかと僕は思います。
日本はもともと西高東低の国でした。文化の先進地域は西の上方で、関東は僻地。実際、江戸も家康が大工事を始めるまで、人も住めない土地だったわけです。
その関東で源頼朝が武家の政権を作った。西国で独立政権を作ろうとしても朝廷は絶対に認めず、威信にかけて潰しにくるでしょう。しかし東国ならば、その余地がある。とは言えやはり簡単ではなく、頼朝は必死に朝廷と折衝を繰り返し、ようやく認められた。そして鎌倉時代は西と東、この場合、朝廷と武士の政権の関係は並び立つかたちで終わりました。
鎌倉幕府が倒れた後、足利尊氏の弟・直義は鎌倉に帰って、もう一度、関東で幕府を開こうと主張した。しかし足利勢はその意見を無視するように京都に進撃して、占領する。
当時は民主主義なんてありませんから、みんなで投票して決めたわけではない。となると”足利氏ナンバー2”である直義の意見を抑え込めるのは尊氏しかいない。つまり京都進出は尊氏本人の意図だったことになります。
尊氏は政権の核として京都を選択し、朝廷と幕府が一体になった。しかし、それなのにまたお互いを切り分けようとしたのが直義でした。
朝廷も武士の権力に包含しようとする尊氏の路線は、孫の足利義満に継承される。そして義満は貴族として出世することで、実際に朝廷を包含し、天皇の権力をも取り込んでいく。だからこそ彼は海外に対して、自分こそが日本のトップ、日本国王であると称したわけです。そのため、将軍の権力が最高潮だった足利義満のときには、朝廷もあまり文句は言えなかった。しかし、明との貿易を再開した六代将軍の義教が、日本国王を名乗ると、さすがにクレームをつけた。
そのときに三宝院満済は「いえいえ、天皇という存在は国王の上の国主です」などと言ってごまかしたのですが、それは誰の目にもごまかしだとまるわかりですね。ちなみに義教は怖い人なので、文句を言った人はみんな殺されたり、左遷されています。
そうしたかたちで天皇と将軍、それから朝廷と幕府が一体になったのが室町幕府でした。そしてその室町幕府の方法論を継ぐ、上方勢力の主権者となったのが豊臣秀吉です。その秀吉と対立する関東の支配者、後北条氏。
つまりこれは朝廷と鎌倉、尊氏と直義、西と東の構図を、戦国時代において再現する構図でもあったのです。
九州・島津の例
そのときの北条にしてみれば「上方の武士など武士ではない。本物の武士は俺たちだ。俺たちは関東に自立する武家政権なのだ」というプライドが当然あったでしょう。
一方で上方の豊臣秀吉にしてみれば「いつまで北条は古いことを言ってやがる。時代は経済だ。経済から言えば、俺たちのほうがはるかに上だ」などと思っていたに違いない。そして東国と上方の戦いがまたここで繰り返されることになります。
関東の覇者である北条は、上方の秀吉に対して頭を下げることがどうしてもできなかったのでしょうね。
人には頭を下げなければいけない時がある北条にしてみると、東国の武士たちをまとめ上げて上方と対抗するという方法論があり得た。上方から見た関東が田舎だとすれば、さらに遠くに東北がありますが、関東の武士を取り込み、さらに伊達政宗を始めとする東北の大名を取り込めば、豊臣に対抗できるという判断があったと思う。だからこそ対立したのでしょうし。
恐らく徳川家康あたりが一所懸命「もうそういう時代じゃない。北条さん、世の中の動きを見ようよ」と説得したと思うのですが、及ばなかった。
似たようなことは、たとえば九州の島津でもありました。
秀吉は北条の前に九州征伐を行い、島津を叩きますが、その際、当主の島津義久は鹿児島第一主義でした。しかし弟の義弘はある程度状況の見える人で「豊臣の力は凄い」と考えていた。義久は「秀吉なにするものぞ」の勢いで戦いますが、負けてしまう。
それでも義久は鹿児島ファーストの旗を下ろさずにいたのですが、義弘は大坂へ視察に行き、巨大な大坂城を見て唖然とするわけです。なにもかもスケールが違う。この勢力とは戦いにならないと。
しかし、その後の朝鮮出兵でも、義久は当初、秀吉の動員に応えようとしなかった。それで上方の実力を知る義弘は「このままでは島津は潰される」と慌てることになる。九州の大名は特に朝鮮への出兵に際して、フル動員を命じられていたからです。約束の日までに島津部隊は到着しなかったのですが、やっと1万人の軍勢が送りこまれて、半島で大暴れした。今でも「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と言われるわけです。
しかし地元ファースト派と上方派の相違は解消せず、最終的には、関ヶ原の戦場にたった1500名を率いて義弘が出陣する事態に至りました。
九州の最南端ですが、それでもあの人たちは枕崎や坊津を持ち、交易をやっていた。昔から商売上手で、経済にも意識が高い。その島津でさえ秀吉に敵わなかったわけで、北条では、とても対抗できなかったのは必然であります。
上方対関東という対立の図式があったということ
以上を北条氏政の失敗だとするなら、そのようにも言えるでしょう。
ただ、後世の僕らにしてみれば「生き残るためには秀吉に頭を下げるしかないよ」と思いますが、みんながみんな、上方に視察した島津義弘ではありませんし、地元第一の力はすごく強いのですね。
伊達政宗も、それで苦労したのかもしれない。ほかの東北の大名たちも挨拶が遅れたというだけでたくさん秀吉に潰されています。
もともと上方対関東という対立の図式があり、北条については、特にそれを受け継ぐ関東の覇者という意識があった。
その意識を理解しないと、北条が秀吉に頭を下げることができなかった理由もわからないと思います。上方対関東という図式は今にも伝わって、それが巨人対阪神の、宿命のライバル関係に繋がっている(と僕は思います)。
※本稿は『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
09/10 12:30
婦人公論.jp