『光る君へ』で竜星涼さん演じる藤原隆家はのちに日本を守った英雄に…あの道長が苦手とした<闘う貴族>隆家とは何者か【2024年上半期BEST】
2024年上半期(1月~6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年5月15日)
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花山院に矢を放った伊周・隆家兄弟は「左遷」。左遷先で彼らがどんな扱いを受けたかというと…
『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマでは藤原道長と伊周の権力争いが描かれましたが、伊周の弟・隆家が花山院に矢を放った「長徳の変」をきっかけに、兄弟は力を失っていきます。しかしその隆家、実は日本を救った英雄と言われているのはご存じでしょうか? 道長の全盛期、九州へ異民族が襲来。老人・子供は殺害、壮年男女が捕虜として連れ去られて牛馬は斬食されました。特に対馬・壱岐は壊滅状態に…。突如瀕した国家の危機に対応、外敵を撃退したのが隆家だったのです。歴史学者・関幸彦先生の著書『刀伊の入寇』よりその一部を紹介します。
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藤原道長と隆家
そもそも刀伊の入寇とは…
藤原道長が栄華の絶頂にあった1019年、対馬・壱岐と北九州沿岸が突如、外敵に襲われた。東アジアの秩序が揺らぐ状況下、中国東北部の女真族(刀伊)が海賊化し、朝鮮半島を経て日本に侵攻したのだ。
道長の甥で大宰府在任の藤原隆家は、有力武者を統率して奮闘。刀伊を撃退するも死傷者・拉致被害者は多数に上った。
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刀伊(女真)が来襲した寛仁の時期、京都は藤原道長の時代だった。刀伊の侵攻にさいし、大宰権帥(大宰府の次官で、実質上の長官)として迎撃の指揮をとったのは中関白家(道長の兄道隆の家系)の隆家だった。
隆家にとって叔父道長はライバルだった。年齢にして十余歳の差がある。
隆家が九州下向したのは長和3年(1014)のことだった。当時36歳(数え年。以下同)。眼病を患っており、宋人の名医の診察を受ける目的もあった。三条天皇在位中のことで、刀伊の事件はそれから5年後のことだった。
「乱暴者・無鉄砲者」と評されて
「世の中のさがな者」とも評された隆家は、道長が最も苦手とした相手だった。「さがな者」は、漢字を当てるなら「性無者」で、規格からはずれた乱暴者・無鉄砲者というほどの意味だ。
兄の伊周とともに本来は中関白家の嫡流に近い立場とされた。しかし父道隆が長徳元年(995)に死去、その勢力が失速する。
隆家の兄伊周と道長の確執はよく知られており、それが朝廷内部での政治権力の帰趨に影響を与えた。
ちなみに隆家らの母は『百人一首』にも登場する高階貴子で、姉は一条天皇に入内、その寵を得た定子である。
定子に仕えた清少納言の『枕草子』にも隆家のことがしばしば登場する。隆家の規格外の行動については、いろいろとエピソードも少なくない。貴族ながら武勇の人としても知られた。
稀有な「闘う貴族」として
風狂の人花山院との確執も有名だ。
伊周と花山院との間で女性(藤原為光の娘)をめぐるトラブルがあり、兄伊周に与した隆家は院を威嚇、誤射の不祥事を起こしている。
伊周・隆家兄弟はそのため流罪となった。『栄華物語』『大鏡』などにも散見される出来事だった。刀伊事件の十数年前のことである。
刀伊の来襲にさいし、「帥、軍ヲ率ヒ警固所ニ到リ合戦ス」(『小右記』)とあるのも剛直さの表れだった。
貴族たる隆家自身が警固所近辺で戦うことは、稀有のことだった。このような規格外の行動力のためだろうか、後世には隆家を流祖と仰ぐ武士団も少なくない。
闘う姿勢を保持する隆家の行動は、わが国の外交の危機に大いに役立ったようだ。
*本稿は、『刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』の一部を再編集したものです。
09/09 10:30
婦人公論.jp