『光る君へ』宣孝の4人目の妻になった紫式部。最初そんな雰囲気はなかったのに…20歳差の結婚に秘めた<それぞれの思惑>を日本史学者が解き明かす

(写真提供:Photo AC)

大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマの放映をきっかけとして、平安時代にあらためて注目が集まっています。そこで今回「紫式部と藤原宣孝の結婚に秘められていた思惑」について、『謎の平安前期』の著者で日本史学者の榎村寛之さんに解説をしてもらいました。

『光る君へ』で求婚した宣孝。当時3人の女性と子をなし、長男は紫式部と2歳違い…わずらわしくなった紫式部が送った歌とは?

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ついに宣孝と結ばれたまひろだが

ドラマ内で、藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)と結ばれたまひろこと紫式部。

まひろが結婚した旨を聞いた道長も、最初は動揺を隠しましたが、宣孝から「夫は私」と聞かされて、さすがに驚く様子を見せていました。

20歳も歳の離れたふたりということで、さぞ紫式部は婚活に焦って宣孝と結婚したのでは…と思ってしまいますが、実際にはどうだったのでしようか。当時の結婚事情を踏まえて、あらためて考えてみましょう。

さすがにドラマのように宣孝が紫式部を越前に訪ねることはなかったでしょうが、史実の藤原宣孝も越前の紫式部に歌を贈っています。

しかし『紫式部集』にある歌からは、それなりに親しい親戚でも、最初はそれほどお互いに想っていなかったという雰囲気があります。ではなぜ二人が結びついたのか?

平安時代には「適齢期」「ちょうどいい年の差」という意識はなかった

よく「20代半ばで独身だった彼女に焦りがあり、父親同様の年齢の男でも選んだ」と言われますが、平安時代には「適齢期」や「ちょうどいい年の差」という意識はなかったと考えられます。

『謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

『源氏物語』の光源氏の恋人や妻は、年上の六条御息所、大学生と小学生が出会った感じの紫の上、ライバルの娘の玉鬘、兄の娘の女三宮など娘でも不思議でない世代まで、実に幅広いのです。

また、若い頃の光源氏に言いよる老女官の源典侍のような女性も出てきます。

実在の女性でも、冷泉天皇の皇子二人と恋をして「恋多き歌人」として有名な和泉式部は30代後半でも恋愛をしています。

そもそもこの時代の結婚は、男が何人もの女の元に通う「通い婚」から始まり、相性や社会的・経済的事情から最終的に同居する「正妻」とそれ以外の「妾」という形にまとまるので、年の差などはケースバイケースなのです。

「男は妻がらなり」

道長が息子の頼通に「男は妻がらなり(男は正妻の格で決まる)」と言ったのはそういう理由です。

男女の出会いは、垣間見から始まることも少なくありませんでした(『源氏物語色紙貼交屏風』より「橋姫」 斎宮歴史博物館蔵)

そして親の財産権は娘が継承することが多く、夫婦別産なので離婚も珍しくなく、安定した夫婦関係はほとんどない社会といってもいいくらいです。

それでも式部が宣孝の四人目の妻という不安定な立場を選んだ背景には、宣孝と式部のそれぞれの思惑があったと思われます。

宣孝の正妻についての資料はありませんが、「従三位大蔵卿」まで異例の出世をした三男隆佐の母だったようです。彼女は宣孝と同じ北家高藤流の中納言藤原朝成の娘です。

この一族は醍醐天皇の母方氏族でしたが摂関家に押されていました。

朝成は最後の上級貴族でしたが後継者に恵まれず、以後高藤流は四位、五位の受領(地方国司)に留まるようになります。その頃に宣孝は、『枕草子』にも書かれた、山吹色の衣装で金峯山に参詣する派手なパフォーマンスで名を売って、以後も有能な受領として活躍しています。

つまりかなり目端のきくやり手だったのです。そして宣孝から見て朝成は祖父の兄弟、その娘は父の従姉妹です。彼はいわば本家の娘と結婚して、高藤流の中心人物になろうとしたようです。

宣孝の狙いは娘婿が叶えたのかも

とすれば、同じ一族で、高藤の甥の中納言藤原兼輔、この血統のもう一人のエリートの子孫である紫式部との結婚にも、やはり思惑があったと想像できます。

父の為時の越前守抜擢が、宋の商人との対応を目的としていたという最近の説を踏まえれば、外来貿易を視野に入れた学者官僚との結びつきにも魅力を感じたのかもしれません。

このように宣孝の思惑を考えると、為時の家産を受け継いだ紫式部は利基流藤原氏のいわば代表として高藤流の宣孝を選んだのであり、軽々には離婚されない読みがあったようにも思えてきます。

実際宣孝の越前守の在任中に式部は帰京しているので、宋人と対応したことで話題の人、為時の邸の女主人として宣孝の訪れを待っていたのです。

二人の結婚は宣孝の予想外の早世により短期間で終わり、彼の本当の狙いはわからないままです。しかし彼の息子と娘は、親を越えて立身します。

隆佐と、後冷泉天皇の乳母となり、従三位の位を得て、「大弐三位」と呼ばれた紫式部の娘、賢子です。彼女の夫は高階成章といい「正三位大宰大弐(太宰府の次官で、現地支配者)」になります。大宰大弐は外来貿易でよく稼げる職務で、成章も「欲大弐」と言われました。

宣孝の狙いは娘婿が叶えたのかもしれません。

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