結婚わずか数年で夫は召集。弟は鹿児島湾で戦死…戦時下で弁護士活動が困難になった『虎に翼』寅子モデル・嘉子が選んだ道とは
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【書影】嘉子が生涯を賭して成し遂げたかったこととは…神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』
再び明大女子部へ
1940(昭和15)年12月、嘉子は弁護士登録をして(試補時代のままに)第二東京弁護士会に所属し、引き続き仁井田益太郎の事務所で勤務することになりました。
主に離婚訴訟を引き受けて働き出した嘉子でしたが、身近な生活にまで、戦争の足音が迫ってきていました。
それまでも中国との戦争が続いていましたが、1941年12月に太平洋戦争(アジア・太平洋戦争)が始まります。
戦時下では民事訴訟の数自体が大きく減り、嘉子は弁護士としての活動がほぼできない状態になっていきます。
そのような中で、嘉子の生活の中心は、母校明大女子部法科での教育となっていきました。弁護士登録をするよりも前の1940年7月、嘉子は明大女子部法科の助手となっていたのです。
さらに、1944年8月には助教授へと昇進しました(なお、その頃には明大女子部は改組して、明治女子専門学校となっていました)。
女子学生たちの憧れの存在に
教師となった嘉子は、入学してきた女子学生たちの憧れの存在でした。
学生たちは、「初の女性弁護士」というイメージとは遠い、明るく人間性豊かな嘉子に驚き、またその優しさに感謝したそうです。
そのおおらかな雰囲気と反対に、講義が始まると、その張りのある声ときっちりした話し方とに、学生たちは惹きつけられました。
遠く満州から入学してきたある学生は、最初に会った時に、嘉子が優しく「遠くからよく来られたわね」と声をかけてくれ、良い靴がなくて困っていた時には、横浜の元町の靴屋まで連れて行ってくれたと語っています(なぜ遠く元町まで出かけたのか、嘉子のお気に入りの靴屋があったのか、わかりません)。
当時の明大女子部の校舎は新しくなっていて、現在の山の上ホテルの近辺にあり、嘉子はここで民事演習、親族法、相続法などの講義を担当していました(戦後も続けています)。
とはいえ、戦局は日に日に悪化し、学校で勉学することが徐々に難しくなっていきました。
明大女子部は繰り上げ卒業を実施し、防空演習や救護訓練なども学校で多く行われて、とても厳しい時代でした。
結婚と戦争
1941(昭和16)年11月、嘉子は笄町(こうがいちょう)の実家の書生だった和田芳夫と結婚して、和田嘉子となりました。
芳夫は、父貞雄の丸亀中学時代の親友の親戚という関係で、会社勤めをしながら明治大学の夜学部を卒業していました。
2人は池袋のアパートで新婚生活を始めましたが、1943年1月には長男の芳武が誕生して、笄町に戻ってきます。
厳しい生活の中にも、大きな喜びを得た時期でした。
しかし、1944年2月、笄町の家が家屋強制疎開(空襲による延焼を予防するため)の対象となり、港区高樹町に引っ越すことになりました。
1944年6月に芳夫が召集され、この時は一度召集解除となったのですが、1945年1月に再び召集されて上海へと渡りました。
この頃嘉子は、友人とともに日比谷公園に出かけ、友人の夫の無事を願うおまじないとして、炭で亀の背中にその名前を書き、公園の池に放したといいます。
誰もが不安を抱え、励ましあって生きていました。
戦時中、必死に生きる
芳夫の召集と同じ1944年6月には、すぐ下の弟一郎の乗った輸送船が鹿児島湾の沖で沈没し、一郎は戦死しました。
1945年3月、嘉子は幼い芳武を連れ、一郎の妻嘉根、その子の康代とともに、福島県坂下町(ばんげまち)(現在の会津坂下町)に疎開することになり、8月15日の終戦もこの地で迎えました。
食料の確保も難しく、生活環境が整わない中で、幼い子どもを守るための必死の生活でした。
その間、4月の空襲で明治女子専門学校の校舎が全焼、5月の空襲で港区高樹町の自宅が焼けて、両親は小田急線の稲田登戸駅(現在の向ヶ丘遊園駅)近くへと移りました(その頃、貞雄は台湾銀行を辞めて火薬工場を経営しており、それがこのあたりにあったのです)。
※本稿は、『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。
06/04 06:30
婦人公論.jp