『虎に翼』シンガポールで生まれ「普通のお嫁さんになるな」と育てられた寅子のモデル・三淵嘉子。東京帝大卒のエリート父・貞雄が西麻布に居を構えるまで
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【書影】 女性であるという自覚より人間であるという自覚の下に!『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』
嘉子の誕生
この物語の主人公であり、女性法曹のパイオニアとして知られている武藤嘉子(後の和田嘉子、三淵嘉子)は、1914(大正3)年11月13日、シンガポールで生まれました。
嘉子の父親である武藤貞雄は台湾銀行に勤務していて、シンガポールは貞雄の赴任先でした。
なお台湾は、1895(明治28)年に結ばれた下関条約によって、当時日本の領土となっていました。その台湾の中央銀行として1899年に設置されたのが台湾銀行です。台湾の貨幣を発行するという役割だけでなく、商業銀行としての側面も強く、糖業など台湾の産業の発展や資源開発に深く関与しました。
嘉子の「嘉」の字は、シンガポールの漢字表記である「新嘉波」から取ったものです。貞雄・ノブ(信子)の夫妻にとって、待望の第1子でした。
1886年生まれの貞雄は香川県の出身で、丸亀中学から第一高等学校、東京帝国大学へと進んだエリートでした。
早蕨幼稚園
貞雄はやがてシンガポールからニューヨークへと勤務地を移すことになりますが、ノブと嘉子はニューヨークへは行かず、1916年に帰国し、香川県丸亀のノブの実家でしばらく生活しました。
その年に弟の一郎も生まれています。
1920年、東京勤務を命じられた貞雄は帰国し、この機会にノブと嘉子も東京に移って一家で渋谷区に居を構えました。
渋谷区穏田1丁目の早蕨幼稚園(近代文学の発展に貢献した教育者・久留島武彦<1874―1960>が開いた幼稚園です。1910年の開園で、児童文学者巌谷小波<いわやさざなみ><1870―1933>の影響を受けて、桃太郎主義教育<桃太郎を教育論と結びつけ、秀才教育の必要性を説く>を掲げていたようです)に入園し、翌1921年には青山師範学校附属小学校(現在の東京学芸大学附属世田谷小学校)に進みました。
担任は、体育ダンス研究・普及の先駆者だった渋井二夫であったといいます。
幸せな暮らし
1926年、渋谷区緑ヶ丘に転居、さらに1929年に港区笄町(こうがいちょう)に移り住み、1931年には同じ笄町の中でまた引っ越しをしました。
父の貞雄は、家を持たないことを一つのポリシーにしていたようです。
笄町という地名はもうありませんが、現在の東京都港区南青山6丁目から7丁目にかけて、西麻布2丁目から4丁目の一部にかけての地域で、嘉子の家は西麻布4丁目にありました。
家は立派な邸宅でしたが借家で、市電の線路がすぐ近くを走っていました。
嘉子はここで両親、4人の弟たち(一郎・輝彦・晟造・泰夫)と明るく穏やかで幸せな暮らしを送っていました。
何か専門の仕事をもつ為の勉強を
貞雄はこの時代のエリートらしく、男性の人生と女性の人生とが平等なものであるべきだと考えていました。
嘉子に対して、「ただ普通のお嫁さんになる女にはなるな、男と同じやうに政治でも、経済でも理解できるようになれ、それには何か専門の仕事をもつ為の勉強をしなさい」と語り、専門的な職業である医師や弁護士を候補として挙げていたようです。
その頃既に日本で女性の医師は誕生していましたが(日本で最初の公認女性医師は、1885<明治18>年に医術開業試験に合格し、医師として活動する傍ら女性の権利・地位向上のためにも尽力した荻野吟子<1851―1913>です。どの分野・職業にも、「女性初」として道を切り拓いた「パイオニア」がいます)、弁護士法の規定により、まだ女性が弁護士になることはできませんでした。
とはいえ、弁護士法改正の機運は高まっていたので、貞雄もそれを察知しての提案だったと考えられます。
※本稿は、『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。
04/10 06:30
婦人公論.jp