『光る君へ』紀行コーナーに登場した中宮・彰子の大原野神社への行啓。紫式部が『源氏物語』にも描いた大原野とは

大原野神社の本殿

奈良・春日大社の分社にあたる大原野神社は藤原氏ゆかりの神社(撮影・筆者、以下同)
NHK大河ドラマ『光る君へ』の舞台である平安時代の京都。そのゆかりの地をめぐるガイド本、『THE TALE OF GENJI AND KYOTO  日本語と英語で知る、めぐる紫式部の京都ガイド』(SUMIKO KAJIYAMA著、プレジデント社)の著者が、本には書ききれなかったエピソードや知られざる京都の魅力、『源氏物語』にまつわるあれこれを綴ります。 

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【写真】本殿を守る「狛鹿」はインスタ映えしそう

前回「百人一首の歌が彩る『光る君へ』の名場面。道長の父や兄が、死に際に愛でた妻の和歌。歌人、儀同三司母って誰のこと?」はこちら

彰子や紫式部が崇めた大原野神社

『光る君へ』第35回では、中宮・彰子の懐妊祈願のために、道長が金峯山(きんぶせん)詣を決行。険しい山道や悪天候に四苦八苦する様子が描かれました。

それが1007年のこと。命を賭した道長の願掛けが功を奏したのか、同年暮れに彰子はめでたく懐妊するのです。

ドラマでは描かれませんでしたが、この金峯山詣の2年ほど前の1005年3月、彰子は大原野神社に行啓(ぎょうけい・皇后や皇太子などの外出)しています。この行啓を取り仕切ったのも、左大臣である道長でした。

今回は、この大原野神社と紫式部のつながりについて、掘り下げてみたいと思います。

京都西部にある大原野神社は、藤原氏ゆかりの神社。784年の長岡京遷都の際に、藤原氏の氏神である奈良・春日大社の分霊を、都に近いこの地に移して祀ったのがはじまりで、その頃から「京春日」と呼ばれていたそうです。

彰子をはじめとする一族の子女は、中宮や皇后になれるよう、この社に祈り、その願いがかなうと、壮麗な行列を整えて参拝したといわれています。大原野神社については、『光る君へ』の紀行コーナーでも取り上げられたので、ご記憶の方もいるのではないでしょうか。

1005年の行啓では、父親である道長をはじめ、紫式部もお供をしたと伝わっており、中宮の行列の華やかさに人々は目を見張ったとか。「まるで(天皇のお出ましである)行幸のようであった」といわれたことからも、その豪華さがうかがえます。

気になるのは、紫式部の出仕が1005年か1006年の年末だと考えられていること。1005年春の行啓に式部が付き従ったとすると矛盾が生じてしまいます……。ただ、紫式部自身も藤原氏ということもあり、この神社に参拝する機会は、ほかにもあったと思われます。

『源氏物語』でも描かれた大原野行幸

神社のある大原野は、小塩(おしお)山の東のふもとにあたり、皇族や貴族が狩りを楽しんだ場所でした。(ちなみに、大原野と、三千院のある大原はまったく別の場所なので、お間違えなく)

小塩山は『伊勢物語』『源氏物語』などの物語に登場するほか、在原業平や紀貫之の和歌にも詠まれています。

大原野神社も、平安時代から紅葉の名所として知られていて、藤原氏が栄えた時代には、天皇の行幸が何度も行われたとか。その行列は、王朝絵巻さながらであったと伝わります。

鷹狩のため大原野に向かう冷泉帝の大行列を、光源氏の邸宅・六条院に住む女君たちが、牛車を連ねて見物に行く(巻29「行幸」)――『源氏物語』に描かれたこの場面は、実際にあった醍醐天皇の大原野行幸をモデルにしたといわれています。

のどかな景色が広がる大原野には、宇治や嵐山などの景勝地とはまた違った趣があります。紫式部をはじめ、平安京の人々にとっても心癒される場所だったのでしょうか。紫式部のこんな歌からは、小塩山に対する格別の思い入れがうかがえます。

ここにかく 日野の杉むら うづむ雪 小塩の松に 今日やまがへる

父・藤原為時とともに越前にやってきた紫式部が、越前富士とも称される日野岳(ひのたけ)に積もる雪を見て、京の都を懐かしんで詠んだ歌。「近くに見える日野岳の杉林は雪に深く埋れんばかり。今日は都でも、小塩山の松に雪がちらちらと降っているであろうか」。そんな意味になります。

生まれ育った都を離れ、越前で迎えた初めての冬。雪国の山の姿に驚き、ふるさとの小塩山に思いを馳せる……。京都の山といえば、比叡山や愛宕山、鞍馬山、あるいは嵐山、小倉山などが歌枕としても有名ですが、このとき紫式部の頭に浮かんだのは、ほかでもない小塩山だったのです。

大原野神社の境内

大原野神社の境内。三の鳥居から春日造の本殿をのぞむ

小塩山はどこにある?

それほどまでに紫式部に愛された小塩山ですが、それが京都のどの山を指すのか、正直、私もよく知りませんでした。そこで、猛暑にもかかわらず、いざ大原野へ。地図上では、さほど遠くないように見えたものの、移動には思ったより時間がかかりそうです。

電車の駅から、遠足気分でバスに揺られること約20分。「南春日町」のバス停で降りると、京都市内とは思えない、穏やかな田園風景が広がっていました。

観光客はおろか、地元の人とすれ違うこともない道に、小さな不安を抱えつつ7、8分歩くと、神社の立派な鳥居が見えてきました。鳥居の脇には「紫式部 氏神のやしろ」というのぼり旗が。

鳥居に向かって左手にそびえるのが、標高642メートルの小塩山です。

大原野神社・一の鳥居

大原野神社・一の鳥居。左手奥に見えるのが小塩山

小塩の山と一体化したような、緑豊かな境内。参道沿いには、先に紹介した紫式部の望郷歌「小塩の松に 今日やまがへる」ののぼり旗が何本も並び、紫式部ゆかりの神社であることを強力にアピールしています。

秋には、この参道が紅に染まるとのこと。これぞ穴場。観光地の喧騒をさけて、京の秋の風情をゆっくり楽しむには絶好の場所といえそうです。

モネの『睡蓮』と鹿の手水舎

オフシーズンの晩夏だったせいか、参拝客の姿もまばら。桜や紅葉は見られないものの、奈良の猿沢池を模したという「鯉沢池(こいさわのいけ)」に、睡蓮の花がひっそりと咲いていました。

池にかかる橋と水面に広がる睡蓮。どこかで見た風景だと思ったら、印象派の画家・モネが好んで描いた睡蓮の池に似ています。そのため、「モネの池」と呼ばれることもあるとか。言われてみれば「うーん、なるほど」という感じでしょうか。

境内にある鯉沢池の眺め

境内にある鯉沢池の眺めは、モネの有名な連作『睡蓮』を思わせる?

境内をさらに奥に進むと、本殿が見えてきます。

檜皮葺きの4社殿が連なる本殿は、奈良の春日大社と同じ様式で、「京春日」との呼び名にふさわしいたたずまい。こんな連載をしているせいか、本殿に参拝すると、平安時代の人々と時空を越えてつながったような感慨を覚えます。

鹿が、神様のお使いの「神鹿(しんろく)」として大切にされていることも春日大社と同じ。1995年までは、実際に鹿が飼われていたそうです。

鹿がいなくなった現在も、神鹿をモチーフとしたものが境内のあちこちに。たとえば、「手水舎」には鹿の像が置かれており、鹿がくわえた巻物から水が流れ出る趣向になっているのです。

鹿の手水舎

かわいい鹿の手水舎。鹿がくわえた巻物から水が流れてくる

狛犬ならぬ「狛鹿」に注目

鹿の手水舎で身を清めて三の鳥居をくぐると、次なるサプライズが。

なんと、狛犬ならぬ「狛鹿」が本殿を護っているのです。 「狛鹿」は全国でもここだけということで、珍しさと愛らしさに、目が釘付けになります。

本殿を守る「狛鹿」

本殿を護る「狛鹿」はインスタ映えしそう。看板や絵馬など、ほかにも境内のあちこちに神鹿が

大原野神社のご利益は、良縁成就、縁結び、家内安全、勝運、厄除けなど。御守りなどの授与品やおみくじにも神鹿があしらわれていて、あれもこれもほしくなってしまいます。

帰りのバスは1時間に1本しかないため、時間つぶしも兼ねて、鯉沢池のほとりにある春日乃茶屋でひと休み。名物のよもぎ団子と冷たいよもぎ茶をいただきました。

古くから大原野ではよもぎがよく採れたとか。この店のよもぎ団子も、昔ながらの味と形を守っているとのことで、素朴な甘さと自然の苦みが、疲れた身体に沁みました。

1000年前、豪華な行列を従えた中宮・彰子は、どんな心持ちでこの社を参拝したのでしょう。一条天皇との夫婦仲が深まり、一族がさらに繁栄することを祈願したのでしょうか。

一方、お供をした紫式部は何を祈ったのか。物語の成功か、あるいは娘の健やかな成長か……。よもぎ茶を飲みながら、そんな想像をしてみるのもおもしろいかもしれません。

よもぎ団子とよもぎ茶

茶屋で食べたよもぎ団子。名前は団子だが、形は草餅。冷たいよもぎ茶の苦みが最高でした

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