外国では「畑」の地図記号がない!?日本でも元々存在しなかった理由とは?

今尾さん「記号のないところが畑を意味していた」(写真提供:Photo AC)
地図を読む上で欠かせない、「地図記号」。2019年には「自然災害伝承碑」の記号が追加されるなど、社会の変化に応じて増減しているようです。半世紀をかけて古今東西の地図や時刻表、旅行ガイドブックなどを集めてきた「地図バカ」こと地図研究家の今尾恵介さんいわく、「地図というものは端的に表現するなら『この世を記号化したもの』だ」とのこと。今尾さんいわく、「記号のないところが畑を意味していた」そうで―― 。

* * * * * * *

【画像】わさび田に用いられた「田」の記号

畑と田んぼをめぐる広大な話

半世紀ほど前までの地形図には、「記号なしの記号」という妙なものがあった。畑である。

現在ではV字を平たくした「畑」という記号がちゃんと設けられているが、「昭和40年図式(同44年加除訂正)」でこれが登場するまでは、記号のないところが畑を意味していた。

もちろん戦時中でもあるまいし、畑と同じく何も記号が描かれていないからといって広場や小学校の校庭に作物をびっしり植えてあるわけではない。この記号は一般的には畑とは認識されていない牧草地も含むので、厳密に定義すれば「畑・牧草地または空地」ということになるだろうか。

国土地理院の現行地形図の記号とその用法を掲げた「平成25年2万5千分1地形図図式(表示基準)」によれば、畑の記号は「陸稲(おかぼ)、野菜、芝、パイナップル、牧草等を栽培している土地に適用する」とある。

ここに掲げられた陸稲などは「田」の記号が用いられていると誤解しそうだが、地形図ではこれらの「植生記号」を作物によって決めているわけではなく、あくまで耕地の形状で判断している。パイナップル畑も、作物が果物であっても「果樹園」ではなく畑の扱いだ。

実は外国の地形図には畑の記号は滅多にない。欧米では果樹園の記号はよく見かけるのだが、農産物を輸出している国、たとえば広大な小麦やトウモロコシの畑が広がっているアメリカやカナダ、フランスなどの地形図にも畑の記号はない。

その広大な耕地を地形図で見ると、道路などに囲まれたエリアには広い間隔で等高線がゆったり描かれているぐらいで、まったく白紙の状態だ。ざっと調べてみたところではドイツ、オランダ、ベルギー、イタリア、スペインにも畑の記号はない。

なぜかと考えてみれば、記号を描くべき面積があまりに広いからではないだろうか。そもそも地図の版下は第二次世界大戦後しばらくまで、ほとんど手描きで作られてきた。

広大な土地にひとつひとつ記号を点々と描いていく手間を考えれば、「何も描いていないのが畑」と決めてしまった方が楽だ。事情はアメリカほど耕地が多くない日本でも同じだろう。

畑の記号の登場

ところが最近になってオーストリア測量局(BEV)のデジタル地形図に「畑の記号」が登場しているのに気がついた。

これは2010年に制定された図式で、農耕地全体がクリーム色で表現され、その色の上に果樹園やブドウ畑の記号が載っている中で、クリーム色だけのエリアが「畑」というわけである。デジタルであれば色をつけるのに手間はかからないから、他の国でもデジタル地図では採用されているかもしれない。

ひとつ付け加えておくと、日本でも明治13年(1880)から作成された2万分の1「迅速測図」には、実は畑の記号があった。その図の凡例によれば、細かい破線で表現された畔道に囲まれた白い部分が畑なのだという。

それならやはり無記号ではないかとクレームを付けたくなるが、実は破線で描かれたこの「畔道」は単なるイメージであって、実際の具体的な道とは関係ない(実際の細道は太めの破線)。一見して本物の畔道らしいのだが、「畑というのはこんな風に畔道が通っているよね」というデザインなのだ。注意深く見れば、これらの畔道は東西方向と南北方向にほぼ一定の間隔で描かれており、北西や東南東など半端な方位を向いたものが一切ない。

それにしてもこの「なんちゃって畔道」はなかなかリアルに見えるので、読む人にだいぶ誤解を与えたようだ。

『地図記号のひみつ』(著:今尾恵介/中央公論新社)

博物館に勤務している知人に「これは単なる畔道イメージですよ」とお伝えしたら驚愕しつつ、「この畔道を基に古代の条里制区画を復元しようと苦労している研究者がいますよ!」と教えてくれた。

私の知らない誰かさんの苦心の研究も、この誤読によってすべて瓦解してしまう。それを思うと心が痛むが、きっと明治期にもそんなことがあって、以後は「畔道イメージ」を描くのをやめて無記号に徹するようになったのだろう。

田んぼの記号

長らく「畑」の記号がなかった日本にも、田んぼの記号は昔からあった。なんちゃって畔道のある迅速測図(刊行図)には「田」と「水田」の記号があり、やはり実線・破線の畔道イメージを伴う記号であった。

ここで言う「田」とは「大正6年図式」に言う「乾田」らしく、つまり現在の多くの田のように稲刈りの少し前など必要な時期に水を抜くもので、収穫後は水のない状態が続く。これに対して水田は地形条件などのため常時水のある田である。

<『地図記号のひみつ』より>

明治17年(1884)から関西で整備が始まった2万分の1「仮製図式」ではこれに「深田」が加わった。「明治24年図式」では呼び名を「沼田」に改めるが、「大正6年図式」まではこの「乾田」「水田」「沼田」の3種類が継続している。

国土地理院の前身である陸軍陸地測量部が地形図編集・作成のマニュアルとして部内向けに刊行した『地形図図式詳解』には「乾田ハ稲田ニシテ冬季水涸レ歩行シ得ヘク 水田ハ稲田、蓮田、藺田〔イグサ=引用者注〕等ニシテ四季水ノ存スルモノヲ謂フ 沼田ハ泥土膝ヲ没シ若ハ小船ヲ用ヒテ耕作スルカ如キモノヲ謂フ」と明確に分類されている。

「沼田」については、大正4年(1915)に再版された『地形図之読方』(後藤好輔陸地測量部班長・砲兵少佐著、川流堂小林又七本店)にも「小舟ヲ用ヒテ耕作セサルヘカラサル如キ深田ヲ謂フ」とあり、今ではほとんどお目にかかれない田んぼのようで私には具体的なイメージが浮かばなかったが、司馬遼太郎さんが『街道をゆく』のシリーズで新潟付近を取り上げた「潟のみち」で、年輩者に聞いた内容を記した次のくだりを読んでようやく納得した。

「田仕事というのはすべて―田植えも秋の穫り入れも―肩甲骨のあたりまで水に浸ってやる。(中略)稲は半ば水草のように浮いて育つ。みのりはふつうの稲田の稲より当然ながらすくない。刈り入れのときは田舟をうかべ、農夫自身は肩まで水につかり、水面上で熟している稲を刈っては舟の中に投じてゆく」という具合である。

昭和30年頃までの話だというから、今の新潟県民でも見たことのない人が多いだろう。

行軍の可否

田んぼを3種類に分類したことは、日本の農業の変遷を調べるためには有用なのだろうが、その理由は実は別のところにあった。明文化されたものを読んだことはないが、国土地理院の前身が陸軍の陸地測量部にあったことからわかるように、陸軍部隊の行動に役立てるためという。

乾田であれば歩兵部隊や軍馬にその上を歩かせることができるが沼田では無理という具合に、これによって行軍の可否を判断する。これは他の記号の話だが、戦前の図式までは、通過が困難な森林などには、その記号と同数の小さい点を打つ決まりがあった。それと同様であろう。

ちなみに3種類の田の記号は戦後の「昭和30年図式」(この図式のみ水田を「湿田」とした)まで引き継がれたが、その後の「昭和35年加除式」では水田(後に「田」)の一種類に統合されている。

同「30年図式」からは3色刷であるが、他の耕地関係の記号が墨であったのに対して田の記号だけは青色が採用され、それはその後の5万分の1、2万5千分の1から現在のネット版「地理院地図」にも引き継がれている。

なお、「田」の記号は稲を育てる田んぼだけに適用されるのではない。現行の「平成25年図式」に「水稲、蓮、い草、わさび、せり等を栽培している土地に適用し、季節により畑作物を栽培する土地を含む」とあるように意外に範囲が広い。

たとえば二毛作で稲刈りの後に麦を育てていても、レンコンであっても、とにかく水を張る形状の耕地であればよいということだ。長野県安曇野(あずみの)市の有名なわさび田にも、地形図上は当然ながら田の記号が広がっている。

※本稿は、『地図記号のひみつ』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

ジャンルで探す