学校の記号「文」マーク、かつては「巻物形」だった!?戦前から戦後にかけて、学校の表記方法の変遷とは?

今尾さん「学校の記号は歴史が古い」(写真提供:Photo AC)
地図を読む上で欠かせない、「地図記号」。2019年には「自然災害伝承碑」の記号が追加されるなど、社会の変化に応じて増減しているようです。半世紀をかけて古今東西の地図や時刻表、旅行ガイドブックなどを集めてきた「地図バカ」こと地図研究家の今尾恵介さんいわく、「地図というものは端的に表現するなら『この世を記号化したもの』だ」とのこと。今尾さんいわく、「学校の記号は歴史が古い」そうで―― 。

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【画像】巻物形から「文」マークに。学校の表記の変遷

記号のある学校、ない学校

新型コロナウイルスの蔓延で「巣ごもり」が長引く中、危機に陥った旅行業界を救う政策が注目を集めたが、大学生の多くは物見遊山どころか、長らくキャンパスへの出入りも満足にできず大変な思いをしてきた。

その後は対面での授業が少しずつ再開されたが、「大学」の地図記号をご存じだろうか。

実は国土地理院で最新の「平成25年図式」には存在しないが、それ以前には「文」マークの傍らに(大)を添えたものが定められていた。それだけでなく短期大学には(短大)、高等専門学校には(専)が付く。

ところが地形図が好きな人でもこの記号にはあまり見覚えがないかもしれない。

というのは、大学、短大、高専については原則として固有名詞を表示し、盲学校、聾学校および特別支援学校については原則として固有名詞を外して「特別支援学校」などとすることになっていたからだ。

大学が固有名詞を記すとはいえ、図上ではなるべく場所をとらないように「東大」や「早稲田大」のように略称で表示する。

省略のしかたはスペースによりけりだろうが、重箱の隅をつつけば、東京大学は広い本郷キャンパスでも「東大」なのに、それより狭い敷地の早稲田大学が「早大」でなく「早稲田大」と不釣り合いだ。

そんなわけで、以前から(大)の表記は大都市部の混み合った場所に限られていた。

2万5千分の1地形図「東京首部」の「昭和43年(1968)修正版」を引っ張り出してみると、キャンパスが街区の中に点在している大学がこの表記で、現JR御茶ノ水駅南側の千代田区神田駿河台周辺では明治大学、中央大学、日本大学の各校舎がこの記号で表記されていた。

明治・中央の本部とおぼしき場所には「明治大学」などの文字が入っているが、近くの専修大学や日本大学は「文(大)」のみの表記であるなど徹底されていない。おそらく他の表記事項との兼ね合いで判断したのだろう。現在の「○○大」ではなく「大学」まで記すのも当時のやり方らしい。

歴史が古い学校の記号

話が逆になってしまったが、学校の記号は歴史が古い。手元の『地図記号のうつりかわり』によれば、関東で明治13年(1880)から整備が始まった最初の地形図である「迅速測図」にはなく、関西方面で同17年から作成された「仮製地形図」で初めて用いられている。

ただし現在の「文」マークとはまったく異なる「巻物形」。当時の学校風景はよく知らないが、教科書ではなく巻物で四書五経などを読ませていたのだろうか。

お馴染みの「文」マークが登場するのは「明治24年図式」で、市役所など現在に続くいくつかの記号とともにデビューした。文の字には「学問」という意味があるので、学校を1文字で表すとすれば最もふさわしい。

学制は同5年に発布され、その後全国に小学校(尋常小学校)が整えられていく。もっとも教育予算は潤沢ではなく、最初から校舎を建てられずに寺の一角などを利用したものが多かった。

『地図記号のひみつ』(著:今尾恵介/中央公論新社)

当初は4年制だった尋常小学校の修業年限は明治40年には6年に延び、2年および4年と幅があった高等小学校の修業年限も2年間に決まった。明治の頃は尋常小学校を卒業しても中学校(男子のみ)や高等女学校へ進む人はほんの一握りで、商業学校や工業学校、農学校などの実業学校への進学者も少なかった。

これらの上級学校へ進む子供は、ずっと時代が下った昭和11年になっても2割程度であり、全体の約3分の2は高等小学校(現在では中学1・2年生に相当)へ進学、その後は果敢にも社会へ出て行ったのである。

余談ながら田中角栄元首相が「小学校しか出ていない」と話題になったが、高等小学校卒なので誤解していた人も多いだろう。

ついでながらエリートコースの中学校(5年制)は狭き門で、入試に落ちた子が高等小学校へ通いながら再チャレンジするケースも珍しくなかったという。戦前の学制はヨーロッパに範をとった「複線型」で、複雑ではあったが、なかなか良いシステムだったのではないだろうか。

一般的な記載方法

戦前の図式の2万から2万5千分の1の縮尺では現在のように、大学や旧制高等学校などが固有名詞の表示、中学校、高等女学校、各種の実業学校は「中学校」「高女校」「農学校」などと固有名詞なしの略記が一般的であった。

ただし縮尺が大きく、またはスペースに余裕がある場合は「第一高女校」「修猷館(しゅうゆうかん)」(福岡市)などの固有名詞による記載も行われている。

学校の記号に限らず、注記(寺社名など)がある場合、現在は記号を省く決まりだが、戦前の地形図では神社記号の傍らに「八坂神社」、寺院記号を本堂に配した上に「知恩院」などと注記があった。

同じ京都市内の明治末の2万分の1地形図を見ると、京都府庁の北側には学校記号に添えて「女子師範学校」の文字がある。参考までに、現在の地理院地図で大学名のすぐ隣あたりに「文」があれば、だいたい付属中学だ。さらにキャンパスが特定学部のみである場合はカッコ書きがある。

たとえば長野県上田市の「信州大(繊維)」、群馬県前橋市の「群馬大(医)」などがそれだが、同じ場所に2つ以上の学部があると適用されないらしい。

埼玉県にある早稲田大学所沢キャンパス(人間科学部・スポーツ科学部)、神奈川県の慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(総合政策学部・環境情報学部)は、それぞれ「早稲田大」「慶應大」の表記のみである。複数学部を表記すれば煩雑だし、学部名が多様化した背景もあるだろう。

かつての地形図では大学が用いる文字とは関係なく「慶応大」「国学院大」などと新字で記載してきたが、最近では大学の表記に合わせている。

上野公園の近くにある「東京藝術大」の藝の字も「平成20年更新版」から旧字に変わった。

そういえばこの藝大が5文字入っているのだから、今も「慶應大」のままの慶應義塾大学は、少なくともスペースに余裕のある日吉や湘南藤沢のキャンパスについてはそろそろ「義塾」を入れてはどうだろう。

一条校

戦後になって学制がガラリと変わり、旧制大学は同じく旧制の高等学校や専門学校、師範学校などとともに新制大学となったが、旧制中学校や高等女学校はおおむね新制高校に受け継がれた。

私の亡き父も名古屋の旧制明倫中学校に入って新制明和高等学校を卒業したのだが、旧制第一高等女学校も一緒になったので、教室で女子と一緒になるなんて、と戸惑った(けど嬉しかった)という話をしていたものである。

地形図でも「昭和30年図式」までは文の記号に(高)を添えて表示していたが、「昭和40年図式」で高等学校の記号が誕生した。「文」マークは小中学校なので、それを○で囲んだ記号が高校である。少し年上の感じが出ているだろうか。

さて、これまで「学校の記号」と大雑把に述べてきたが、記号の対象は厳密で、「平成25年図式」によれば、「学校教育法(昭和22年法律第26号)第1条に規定する学校(いわゆる「一条校」)のうち小学校、中学校、義務教育学校、高等学校及び中等教育学校については、記号を表示する」としており、それ以外は「学校」と名乗っていても記号は付かない。

簿記学校や自動車学校などはもちろんだが、外国系の学校も同様で、たとえば朝鮮中高級学校や中華学校(中国系・台湾系)は表記されていない。

ただし韓国系の学校の一部は「一条校」であるため、その場合は小中学校と高校の記号が置かれている。

※本稿は、『地図記号のひみつ』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

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