「愛するボクシングがあったからこそ頑張れた」死刑の冤罪を晴らして無罪を勝ち取った元プロボクサーの袴田巖さんが9年ぶりに後楽園で観戦も48年間の拘禁症影響でリングに上がれず

 元日本フェザー級6位のプロボクサーで58年も無実を訴え続けた末、死刑判決の冤罪を晴らして無罪を勝ち取った袴田巖さん(88)が29日、後楽園ホールを訪れて9年ぶりにボクシングを観戦した。48年に及ぶ拘置生活の後遺症からリングに上がることはできず、今も残る冤罪の恐ろしさをまざまざと示したが、姉のひで子さん(91)が代わりに支援への感謝と無罪となったことを報告した。また再審の支援活動に参加していたWBC世界バンタム級王者の中谷潤人(26、M.T)も駆けつけて「無罪を獲得された戦いに力をもらった」と語り、今後、機会があれば袴田さんを世界戦に招待したい考えを明かした。

 

姉のひで子さん(右)が代わって挨拶し、支援活動に参加していたWBC世界バンタム級王者の中谷潤人もリングに上がった(写真・山口裕朗)

 WBC王者の中谷潤人も駆けつける

 58年にも及ぶ戦いの末無罪を勝ち取った袴田さんが“聖地”後楽園ホールに帰ってきた。20年以上にわたって支援活動を行ってきた日本プロボクシング協会の支援委員会が、9月の無罪判決、検察の控訴放棄で完全無罪が確定したことを受けてM.TジムとKG大和ジムが共催の「パイオニアオブファイトvol.9&大和魂18」大会に招待したもの。再審開始が認められ釈放された2015年3月以来、9年ぶりとなる後楽園で、袴田さんは、黒いハットにジャケット、蝶ネクタイと正装し、車イスで南側の通路から、第1試合の終わりから第2試合の4回戦のファイトを観戦。第2試合の判定結果が出る頃にリングサイドの後方に移動した。
 当初の予定では、支援委員会が、いつでもボクシングを観戦できるように後楽園のリングサイドに設置していた「袴田シート」で、第3試合を観戦したのちに、袴田さん自身がリングに上がり、無罪確定の報告をする段取りだった。だが、姉のひで子さんによると、自宅のある浜松から、新幹線と車を乗り継いで後楽園まで移動したが、控室に入ってから、5分前に急に「帰りたい」と言い出したという。
「喜んで蝶ネクタイをして出かける用意をしてきたんですが、拘禁症の後遺症。天気と一緒でグラグラ変わる。その時は何を言っても聞かないんです。家では知らない顔をしていると収まり、1時間もすれば、また普通に話はできるが、後遺症は恐ろしい。長年の48年の拘置所生活の影響が出ている。妄想の世界に入ると(拘置所内での)恐ろしいことを思い出す。これは一生治らないし、治そうとも思わない。そのままの巌を受け入れて生きております」
 48年にわたる拘置生活は、袴田さんの精神を蝕んだ。死刑判決が下され、無実なのに死の恐怖と直面することになり、心が病み、さらに不安定さが増したという。
 9年前に後楽園を訪れた際には「『袴田巌、後楽園に帰る』と書いて、喜び勇んで来た」(ひで子さん)。リングに上がり「四角いジャングルの中に入ると血が躍るねえ」と、しっかりコメントしたが、この日は、意味不明の言葉を発し続けた。
 20年にわたり活動を行ってきた支援委員会の委員長で、川崎新田ジム会長の新田渉世氏は、「(冤罪の)現実は、こういうことなんだ、と伝わる意味で、隠さずにあえて前に出されている」と説明した。
 リングにはひで子さんが代わりに上がった。
 2015年に授与されたWBCの名誉ベルトを漫画家の森重水さんが持った。「スプリット・テジション~袴田巖・無実のボクサー~」という漫画で支援を続けた元プロボクサーだ。そして支援活動に参加してきたWBCの現役王者である中谷も一緒に並んだ。ひで子さんは支援への感謝を述べて無罪判決を報告した。
「58年戦ってやっと勝ちましたの。これで無罪になりました」
 リングアナが、青コーナーの花道の後ろに袴田さんがいることを告げると、場内から温かい拍手が起きた。
 袴田さんはひで子さんの挨拶が終わると退席して記者会見に出席した。
 袴田さんは、そこでも意味不明の妄想を口にしていた。
 ひで子さんが気持ちを代弁した。
「(無罪となり)出かけてこれたことを大変うれしいと思っています」

 

 

 釈放後自宅でボクシングの話は「全然したことがありません」という。
「テレビでもボクシングの試合をあまり見ないが、見るときもある。その日の状況にとって違う。調子がいいときは見るし、悪いときは見ない」
 58年にも及ぶ戦いを支えたのはボクシングだったという。
「ボクシングで鍛えていたから頑張れたと思っています。巌はボクシングしか知らない。他のことは知らない。ボクシングを愛していることは間違いない」
 袴田さんは、現役時代に1年に19試合を戦い、日本での年間最多試合の記録を作った。「プロボクサー崩れ」を理由に逮捕されて、捜査機関に自白を強要され、証拠まで捏造されて、殺人犯に仕立てあげられたが、その鍛えた肉体と精神が48年もの独房生活に耐えさせたのだ。だが、釈放されると同時に胆石を除去する手術を行うなどその肉体も精神もボロボロになっていた。
――袴田さんにとってボクシングとは何だったのか?
 「青春そのもの。30歳までやっていましたから」
 ひで子さんは迷うことなく答えた。
 会見には中谷も同席した。
 袴田さんとは初対面。車いすの袴田さんの側に寄って膝を折り「おめでとうございます。来ていただき、この場に僕もいさせていただき、ありがとうございます」と話かけた。
 袴田さんの不屈の精神は中谷にも何かを訴えかけた。
「無罪を獲得されて、長い間、戦ってこられた。僕自身も力をもらいました。今ボクシングができていることに感謝し、僕ができることを精一杯頑張っていかなくてはと強く思う」
 2日前に控訴を放棄した静岡地検の検事正が袴田さんの自宅へ謝罪に訪れた。無罪確定後に、検察最高トップの畝本直美検事総長が「捜査機関の捏造と断じたことに強い不安を抱く」との談話を発表し、あたかもまだ犯人として疑っているような問題コメントを残した。弁護団は強く反発したが、地検の最高トップは「袴田さんを犯人視をすることはないことを直接伝えたい」とその談話を打ち消した。ひで子さんは「今さら、検察にどうこういうつもりは毛頭ない。これは運命だと思っています」と謝罪を受け入れた。

 

 

 この日の会見でも「許すも許さないもない。検事総長は、都合でああ言ったと思った。無実なんだから無罪になって当たり前だと思っていた。そんなことは問題にしていない」と検察の最高トップの発言を問題にしていないことを明かした。
 テレビニュースでも、それらやりとりを見た中谷は、「なんて心が広いのか」と感動し、58年もの戦いを勝ち抜いた理由をそこに感じたいう。
 そして、今後、袴田さんを自身の世界戦に招待したい意向を口にした。
「人生を発揮する場所がボクシング。見ていただいて何か感じていただければうれしい」
 中谷は来年2月下旬に3度目の防衛戦を予定している。
 日本プロボクシング協会の支援委員会は、来年1月に熱海に行われる協会の新年会にも袴田さんを招待する方向で、それを最後に支援活動にピリオドを打つ。常設の「袴田シート」も、これで最後になるが、新田委員長は「いつでも袴田さんが来たいときには、シートを設置する方向で協会内で調整している」という。
 ひで子さんも「これが最後じゃない。また機嫌のいいときに連れてきたい。本人が行くと言えば、外国でもどこでも連れていこうと思っている」と説明し、今後は、冤罪を支援する活動に協力したいという考えを明かした。
「冤罪の被害者は多い。共に戦ってきた同士。一人でも早く再審が開始になるように、再審の改正もそう。すべからく関わっていきたい」
 ひで子さんは、リング上からファンに「100歳までは言いませんが、なるべく長生きしたいと思っています」と、袴田さんの“今後”を約束していた。きっと袴田さんは、心の奥にある愛するボクシングを見守り続けるのだろう。
(文責・本郷陽一/RONSPO、スポーツタイムズ通信社)

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