1986年、ヤクルトが突然プロ野球労組を脱退した理由。尾花高夫が今だから明かす“ヤクルトならではの事情”
〈「怒りで紙を持つ手が震えたよ」球界再編騒動から20年。選手会潰しを狙った当時のコミッショナーが、12球団のオーナーたちに送っていた驚愕のマル秘文書【坂井保之】〉から続く
球団による“搾取”から脱却し、選手たちの権利を獲得するため、中畑清初代会長らの奮闘もあり、1984年に日本初のプロ野球選手会労組が設立された。だが、1986年の開幕直前にヤクルト選手会が突然、労組からの脱退を発表。いったい何があったのか。当時のエースで後に選手会長となる尾花高夫が語った。
「ヤクルトは球団と“おもてうら一体”」
それは、中畑清をリーダーとするプロ野球選手会が東京都労働委員会から労働組合としての認定を受けてから5か月後のことであった。
開幕を直前に控えた1986年4月、突然、ヤクルトの選手会がこれを脱退すると記者会見で宣言した。
三塁手としてレギュラーを張っていた角富士夫会長が「ヤクルトは球団と表裏一体のもので、集団の力を借りて交渉しなくても、われわれの求めるものは常識の線で満たされている」と脱会声明文を発表したのである。
けれど、「表裏一体(ひょうりいったい)」を「おもてうら一体」と読み上げるなど、当初から選手の意志ではなく、圧力をかけた親会社側が作成した文章ではないかと指摘されていた。いずれにせよ、12球団の足並みが切り崩されたのは、大きな痛手であった。
西井敏次事務局長(当時)は、板挟みになった角の苦悩を今でもよく覚えている。
「角とは同期でね。初台のステーキハウスでよくしんどさを語ってましたよ」
これより、数年間、ヤクルトを除いた11球団による構成で選手会労組は運営されていった。
大きな転機になったのは、1988年、エースピッチャーとして活躍していた尾花高夫がヤクルトの選手会長に就任してからであった。中畑はこのタイミングを逃さなかった。
即座に連絡を取り、選手会労組への復帰を要請した。松岡弘の引退後、主戦投手としてスワローズのマウンドを守って来た右腕はポジティブな回答を返した。
「『必ず(選手会に)僕が戻しますから、キヨシさん、一年だけ待っててください』と言ってくれてね。あれはすごく助かった」(中畑清)
この宣言は見事に実行され、1989年にヤクルト選手会はプロ野球労組に復帰した。その後の球史を見るに、ここで尾花が立ち上がらず、脱退が常態化したままであったならば、ヤクルトにおける選手の権利主張の潮流は途絶え、古田敦也による1リーグ制への移行を阻止した2004年のスト決行も成されなかったのではないか。
当時の尾花は何を考え、組織の中でどう動いたのか? この質問に対して尾花はヤクルトスワローズというチームのカラーから語り始めた。
「まあ良く言えば、家族的なチームで、選手はオーナーにかわいがってもらうことで守られていたとは言えると思うんですけど、逆に言えば、鶴の一声で何でも決まってしまう。そういう体質であったというのは事実です」
スター選手の年俸を抑え、その分を二軍選手に
ヤクルトの初代オーナーであった松園尚巳はファミリー主義を打ち出し、対立を好まず、チーム年俸の平均化を説いていた。スター選手のアップ率を抑え、その分を二軍選手の最低年俸に回し、またトレードに対しても消極的な姿勢を貫いた。
選手はワンマンオーナーの下で一定のセーフティネットを享受していたと言えるが、それはプロとしての権利の担保というよりもタニマチ的な傘の下での不安定な加護であった。
尾花は続ける。
「ヤクルトが脱退した経緯については、当時、僕はまだ会長じゃなかったので、まあ、どういう圧力があって、そこに至ったのかまでは知らないです。
ただヤクルトの選手として、プロ野球選手会の集まりがあったときに社団法人のところまではみんな出席するのに労組の話になると途端にぞろぞろと退席するという事態が続いていて、やっぱりそこには疎外感がありました。12球団あるのに11球団の話し合いになってしまっていることに淋しさは感じてました」
尾花自身が大きな違和感を感じていた時期に選手会長になった。この頃の尾花はすでに押しも押されもしないヤクルト投手陣の柱となっていた。
チームがほぼ最下位を定位置としている時代に二桁勝利を上げ続けただけではなく、1985年からは連続して200イニングを超える投球回数を記録していた。大黒柱としての誇りと自覚がある中で中畑からの懇願のような復帰要請が来た。
尾花は社会人時代に苛烈な現業現場を経験していた。PL学園卒業後に進路として選んだ新日鉄堺という会社は、運動部に対して独特のポリシーがあった。
名門八幡製鉄所の流れを汲み中村祐造、柳本晶一、田中幹保らを輩出したバレー部の社員は事務職に配置されてデスクワークをしていたが、野球部は「鉄は国家なり」と謳う会社の根幹である製鉄現場の仕事をしっかりしてから、練習に行くという方針が貫かれていた。
尾花は高さ30メートルの煙突に登ってダストや水分の量、さらには高炉ガス・転炉ガスの濃度を測り、それが堺市の基準をオーバー超えていないかを確認する作業に就かされていた。
鉄鋼処理で燃えているガスを計るための機械は20キロもの重量があるが、それをかついで梯子を上り、設置して弁を開けて1時間びっしりと測るのである。
機械室と煙突の現場にいるスタッフはトランシーバーで連絡を取り合い、「今から高炉止めます」という連絡が入ると、管の中にノズルを突っ込んで、そこから1時間調べる。
濾紙に入ってるガスをフワッと吸っただけでも身体を壊す危険な仕事だった。だから転炉ガス・高炉ガスに行くときは、各班の一番の年長者が機械室で操作するという暗黙のルールがあった。
尾花高夫をつくった「社会人時代の苦労」
若い尾花はその間、ずっと30メートル上空にいなくてはならない。煙突はめちゃくちゃ熱く、夏は脱水症状で気が遠くなりかけるが、冬などは逆に背中を寒風が突き抜けて体温調整に変調を来たした。
現場から帰社すると、電子顕微鏡に濾紙を乗せてグラム数を毎回調べて市役所に持っていく。
「一切、粉飾も改竄もしなかったですよ。それだけ真面目で危険な仕事でもあるので、朝、必ずミーティングをやるんですよ。班長が『二日酔いのやつはちゃんと申告しろ』って言うんです。万に一つも間違いがあってはいけないので。
だから、二日酔いのやつは正直に手を挙げて、『じゃあ、お前は今日は残り』となるんです。それだけ緊張していないといけない仕事でした」
尾花はその緊張から解放される間もなく、そこから練習に向かう毎日であった。しかもグラウンドでも自らに課したルールがあった。
午後7時には全体練習が終わると、その後に必ずグランドをひとりで30周するというものであった。これをこなすのに約一時間かかった。
さらに休みの日は社員寮から母校のPL学園まで走って通い、そこで後輩たち(二年生に米村明、一年生に西田真二、金石昭人ら)の練習を手伝ってまたランニングで帰ってくるということをルーティンにしていた。堺の寮から富田林のPL学園グランドは片道10キロはあったので、往復で20キロ。
黙々とこれらの日課をこなしている尾花の姿を大矢明彦のバックアップとして中出謙二捕手(後に南海)を視察に来たヤクルトのスカウト片岡宏雄が目にとめて、『これは広岡監督好みの選手だ』とドラフトにかけたのは、知られた話である。(新日鉄堺は当初、まだ会社に貢献して欲しいとプロに送ることを渋っていたが、最後は片岡の熱意に押し切られる形で円満退社となった。代わりに良い高校生がいると片岡が同社に獲得を薦めたのが、成城工業の野茂英雄であった)
えてして社業をおろそかにする社会人選手も少なくない中で、当時の尾花は24時間を目の前のタスクに向けて文字通り全力投球していた。その地道な努力により、社会常識や人と接する際の知見やふるまいが身についていったことは想像するに難くない。
労働の現場や行政とのやりとりを体験し、その上で野球への情熱を燃やしてきたかような人物がリーダーに就くと組織は前に進んで行く。(#8に続く)
取材・文/木村元彦
〈ヤクルト球団のプロ野球労組復帰に奮闘したエース・尾花高夫は今? 保護司として草の根の人権広報活動に励んだことも〉へ続く
10/21 17:00
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