現地ライターが取材メモを回顧…渡邊雄太が挑み続けたNBAでの軌跡

「どうしたんですかね。ちょっと聞いてみようと思っているんですけど」

 3月27日(現地時間)、ロサンゼルス・レイカーズが敵地でメンフィス・グリズリーズと対戦したあと、八村塁は会場で姿を見ることのなかった渡邊雄太について、話した。

 そして少しの間を空けて、こう続けた。

「NBAというのは大変なところなので。ああいう風にシーズン前は、雄太さんが契約したと盛り上がって、(ケビン・)デュラントとスタメンになるんじゃないかとか、そういう話にもなっていた中で、こういう、いきなりトレードされたりして、試合にも出られなくなったりするので、どれだけNBAが辛いかということをみんなにもわかってもらいたいですし、僕もそうですけど、外から見て簡単そうにやっているように見えるかも知れないですけど、そうではないというのが事実なので」

 それから3週間あまり――。渡邊はInstagramでのライブ配信で、シーズン最後の1カ月半を「個人的な理由」で欠場したのは、メンタル的なことだったと明かし、それと同時に自らに選択権があった来季のプレーヤーオプションを破棄して来季から日本のBリーグでプレーすることも発表した。

 八村自身もメンタル面を理由に2021−22シーズンの前半、チームから離れていた。レイカーズ専門チャンネルの自らを取り上げたエピソードの中で、当時パンデミックの影響もあり、孤独であったことを明かしており、NBA選手として生き残っていくことの厳しさや、華やかに見える裏の苦労や孤独感を自らも味わっているだけに渡邊の胸中を誰よりも察することができたのだろう。

◆NBA同期のジャクソンJr.は「彼のことを尊敬しないわけにはいかない」

2018年、ジャクソンJr.(右)は渡邊といっしょにグリズリーズに入団 [写真]=Getty Images

 また違う方向から渡邊の苦労を見ていたのは、ジャレン・ジャクソンJr.。2018年にルーキーとして渡邊とともにグリズリーズ入りしたジャクソンは、「雄太は多くのことを背負っている。FIBAでの雄太を見ていると、彼は日本の宝のような存在で、人気選手だ。まさに “chosen one(選ばれし者)”で、それは大変なことだと思う。そんな彼のことを尊敬しないわけにはいかない」。

 ジャクソンのようにドラフト1巡目全体の4位指名で、19歳だったルーキー時からグリズリーズのスターターとして活躍してきた選手でも、NBAの過酷さはわかっている。ジャクソンがいつも口にしていたことは、それに加え、オフシーズンは母国のために戦っていた渡邊の姿で、「雄太は1年中プレーしている。凄いことだ」と話していた。

 ジャクソンはルーキーのときに渡邊とトレーニング用のバイクのスコア(数値)を争ったことがある。自分が出したスコアに満足していたら、渡邊に抜かれてしまった。それが悔しくて、またバイクに挑戦し、渡邊のスコアを抜いた。それを渡邊に伝えると、「むきになって、僕の出したスコアを大きく塗り替えた」と笑みを浮かべた。

「クレイジーな話だよ。たかがバイクのテストで、雄太はやり終えると床に倒れこむほど全力で僕の記録を破ったんだ。その記録は今でも残っていて、彼がトップのまま誰も破っていない。彼、僕、彼、僕、そして他のみんなの名前が続いている。彼は他の人とは違う。おそらく、“オフスイッチ”がない」

 2月に渡邊がトレードで戻ってくると知ったときには、ジャクソンJr.はすぐに連絡を入れたと言う。「彼がフェニックス(サンズ)とブルックリン(ネッツ)でKD(ケビン・デュラント)と一緒にプレーすることが好きだったのは知っている。でも僕は、彼とまたプレーできるのがうれしい」。渡邊のグリズリーズとしての「2度目」のデビュー戦を終えたあと、ジャクソンは笑顔で話していた。

◆NBAのトップ選手も認めた渡邊雄太の存在

当時ラプターズのトップスターだったシアカムは渡邊のバスケに向かう姿勢を評価していた [写真]=Getty Images

 ジャクソンがそうであったように渡邊は、NBAでかけがえのない友人をたくさん作ってきた。

 例えば、トロント・ラプターズでチームメートだったパスカル・シアカム。NBAトップ級の選手である反面、チームメートだった時は、何かと渡邊にちょっかいを出してきた人懐っこい選手でもある。

 渡邊がラプターズのトレーニングキャンプに初めてきた時は、ツーウェー契約としての過去2年、NBAで33試合しかプレーしていなかった。1年前にNBA王者となったラプターズは、優勝に大きく貢献したカワイ・レナ―ドこそ他チームへ移籍していたが、ラプターズのカルチャーを築いてきたシアカム、カイル・ラウリー、フレッド・バンブリートらがまだ健在で、渡邊は無保証の契約でその中に飛び込んだ。

 しかし、そんな彼らを印象づけるのに時間はかからなかった。「雄太は常にエネルギーに溢れていて、全力を尽くす。彼が最初に入ってきたとき、そういう姿にみんな感心したよ」とシアカム。ラプターズ時代はミネソタ・ティンバーウルブズのアンソニー・エドワーズのダンクをブロックしようと立ち向かったものの豪快なポスタライズダンクを決められてしまい、その映像で一躍有名になってしまった渡邊だが、「彼は恐れることなく何にでも飛びついていた。いつもチームに貢献しようとしていた。チームメートとして、いてほしい選手。最高」と話し、「僕らはいつまでも友達だ」と優しい表情を見せた。

◆後進へ道を拓いた渡邊雄太の功績

 ドラフト外という立場からNBAに6年間も留まり、本人が望めば最低でも7年はプレーできた渡邊。それがどれだけ凄いことかを誰よりも知っているのは、NBAの下部組織Gリーグで3シーズンプレーし、今季はBリーグ長崎ヴェルカに所属した馬場雄大かも知れない。

 NBAという「てっぺん」を目指して馬場は、「死ぬほど」努力した。自らがNBAのトレーナーと練習している中で、NBAでプレーするような選手は、誰もがそれほど真剣に取り組んでいるところを間近で見たからだ。そんな中、馬場はスリーポイント力を上げ、より力強くなり、スキルを磨いた。昨季はマーベリックスのワークアウトにも呼ばれており、「めっちゃ良かった」と言う。しかし、昇格の声はかからなかった。

「プロフェッショナルとして最高の準備をしないといけない」と厳しい日程、移動が続く中、一生懸命にやり続けた。だが、NBAへの道がなかなか開かず、焦りを感じたこともあった。「このタフな時間をいかにどう乗り切るかっていうのはあります。タフというか、メンタルがちょっとね」馬場はため息をついた。

 その馬場も、「いろいろあったけど最高の6年間でした」との渡邊のX投稿に「沢山の夢や希望をありがとう!!断言できるのは、あなたの存在がなかったら今の僕はここにいません」とのコメントを入れて引用リポストした。

馬場雄大は渡邊の功績をたたえ、挑戦をねぎらった [写真]=fiba.basketball

 今年の2月NBAオールスター・ウィークエンドの開催地インディアナポリスで行われたバスケットボール・ウィズアウト・ボーダーズ(BWB)に有望な高校生として日本から選ばれた東山高校3年生の瀬川琉久は、アメリカの大学進学を目指すことを明かし、そう思ったきっかけについて、渡邊や八村から刺激を受けたことを挙げていた。渡邊がNBAでの6年間を含むアメリカでの11年でやり遂げてきたことは、馬場のような同世代から、高校生である瀬川のような次世代の確かな道しるべとなった。

◆伝えなくても実践していた恩師からのメッセージ

ジョージ・ワシントン大のシニアデーで渡邊の両親と写真に収まるジョゼフコーチ(右) [写真]=Getty Images

「(メッセージは)たくさんある。でも最も伝えたいことは、これから彼がプレーするのはプロであり、ビジネスが絡んでくるレベルだということ。今後サラリーキャップの問題に出くわしたり、解雇を経験したり、あちこちのチームを行き渡ったり、自分にはコントロール出来ないいろんなことに出くわすだろう。ビジネスの世界だから、それは仕方のないことだ。でもジムで練習したり、睡眠をしっかり取って疲れを癒したり、正しい食生活を送ったり、トレーニングしたり、自分でコントロールできることはしっかりすること。エキストラワークをし、必死になって努力し、トレーニングキャンプであれ、練習であれ、ゲームであれ、万全な状態で臨むことだ。そういうことをすることで成功が見えてくる。彼はハードワーカーだし、人間性も素晴らしい。彼のような人間は、壁にぶつかっても自分のやるべきことをやって成功できるはずだ」

 崖っぷちに立たされても、いつも這い上がっていた渡邊にこの言葉を残念ながら伝える機会は最後までなかった。

 しかし、ジョセフコーチからのメッセージは、渡邊に届いていた。

 それは渡邊雄太が挑み続けたNBAでの軌跡が証明している。

文=山脇明子

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