飯田覚士 大御所たけしの助言で開眼「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」から3度目の世界挑戦で頂点へ…前編

「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」から世界チャンピオンに上り詰めた飯田覚士=東京・中野の「飯田覚士ボクシング塾 ボックスファイ」で(カメラ・近藤 英一)

 バラエティー番組のボクシング企画がきっかけでプロになり、世界の頂点まで駆け上がったのが、元WBA世界スーパーフライ級王者の飯田覚士(54)だ。まれなケースで世界のベルトを手にした1人だが、突出した何かがあるのではなく、科学的トレーニングを早い段階から取り入れ、目と脳を鍛えて結果を残した頭脳派ボクサー。その過程ですべてを結び付けてくれたのが、ビートたけし(77)の助言だったという。「後楽園ホールのヒーローたち」第12回は、高校時代は帰宅部だった飯田覚士に、アイドルボクサーの殻を破り世界王座を獲得するまでどう成長できたのかを聞いた。(取材、構成・近藤英一)=敬称略=

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 引退から四半世紀、50代半ばになり、頭髪には白いものが目立ち始めた飯田は、人生を変えた大御所のあの時の言葉を今でも鮮明に覚えている。

 「役者っていうのは、常にカメラが向けられているけど横から撮られたら自分がどう見えているか、後ろ姿とか、そういうのを考えて格好つけなくても自然にやって絵になるのがいい役者なんだ」

 飯田は帰り際、その言葉を反すうして思わず声を漏らした。

 「これだ。すべてが結びついた」

 声の主はビートたけし。飯田にとって世界チャンピオンになるためのヒントが凝縮されたものだっだ。たけしとは、1985年から96年に放送された日テレ系バラエティー番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!(元テレ)」内で、90年にスタートした企画「ボクシング予備校」に出演したことがきっかけで知り合った。

 96年4月29日、名古屋レインボーホール(現日本ガイシホール)。飯田はWBA世界スーパーフライ級王者アリミ・ゴイチア(ベネズエラ)に挑戦したが、試合前に左拳を負傷する致命的なケガもあり5回TKO負けした。王座は取れなかったが、応援してくれたたけしにお礼の挨拶に行った時のことだった。当時は監督、主演を務めた映画「HANA―BI」の撮影真っ最中。多忙なため当初は15分程度といわれていたが、1時間以上、2人で話す機会に恵まれた。

 ボクシングに造詣が深いたけしの第一声はこうだった。

「ゴイチアには負けると思っていたよ。気負ってたもんな」

 すべてを見抜かれ、返す言葉が無かった。それからは人生の話になり、そして役者論になった時、ボクサー飯田を意識改革させる言葉を授かった。

 飯田は全日本新人王になり日本ランカーになると、当時はあまり耳にしなかった「ビジョントレーニング」という科学的トレーニングを練習に取り入れ始めた。多種多彩なメニューはあるが、一例を挙げれば光る点を目で追い、手でタッチする、光った数字を瞬時に把握して当てるなど、目から入った情報を脳が判断して体をどう使うか。ボクシングにも必ず役立つと早い段階から取り入れ、元WBC世界バンタム級王者の薬師寺保栄も同様のトレーニングを行い世界王座奪取に役立てている。

 たけしの言葉に「すべてが結びついた」と口にした答えはこうだった。

 「それまでも(ビジョン)トレーニングはやっていましたが、自分から見た相手のことだけを意識してやっていました。自分のリーチが届くか、どの距離で戦えばいいのか。たけしさんが言われた自分が相手にどう映っているかは意識したことがありませんでした。自分の目、そして相手の目になる。次のステージの視覚的な感覚がそれまではゼロでしたが、あの言葉で気付きました。立体的に空間把握する意識を教えてもらい、そこから確かに自分が変わっていけました」

 スパーリングの時は、相手に自分がどう映っているのかを意識した。相手の目線になることで、次の動きが予測できる。そうすることで相手のパンチも自然とよけることができた。「視野が二次元から三次元に広がりました。立体的に空間を把握していくと、次は時間軸も加わりました」と、数秒後を予測して動くようになったという。

 ゴイチア戦から1年後の97年4月29日、飯田はWBA世界スーパーフライ級王者ヨックタイ・シスオー(タイ)に挑戦した。2度目の世界挑戦は「相手の動きが以前よりはっきりと、ゆっくりに見えるようになっていた」と実感する。結果は引き分けでも、世界との距離は明らかに縮まっていた。そして8か月後の同年12月、ヨックタイに再挑戦すると3―0の判定勝ちで世界王座を手にした。相手目線になり、先を読むという意識をビジョントレーニングに結びつけ、大願成就した瞬間だった。

 世界の頂点を極めた飯田だが、幼少時はどこにでもいる普通の少年だった。勉強ができる、運動神経が突出していたわけではない。ボクシング自体は好きで「一度やってみたい」と思っても、地元に部活がある学校は存在しなかった。中学時代は卓球部、高校1年まではサッカー部だが、それ以降は「バンドをやったり遊んでいました。まぁ、帰宅部というのが一番正しいでしょう」と述懐する。

 「大学に入ったらやろう」と岐阜経済大に入学するとボクシング部の門をたたいた。2年の時には早くも国体の岐阜県代表に選ばれる。メキメキと成長したと言いたいところだが、「正直言って、当時の岐阜県はボクシングをやっている人が少なくて、ちょっと練習すれば誰にでもチャンスがあったのを覚えています」。部の練習は春と秋の大会前に集まり汗を流したが、年間にしても2、3か月程度。全日本選手権優勝や五輪代表を目指す、関東や関西の強豪校とは明らかに違うスタイルの部活だった。

 当時の夢は「ツアーコンダクター」。日本全国、世界を舞台に仕事をすることを願った。それが、たまたまテレビで見た「元テレ」のエンディングで告知していた「ボクシング予備校」のスタート。プロボクサーを目指す人材の募集を知り、軽い気持ちで送った一通のはがきで人生が一変する。飯田は一夜にして有名人になり、プロのステージへと進んでいくのだが、それは引くに引けなくなった上での決断だった。(続く)

 ◆飯田 覚士(いいだ・さとし)1969年8月11日、愛知・名古屋市出身。大学からボクシングを始め、同4年の91年3月にプロデビュー。全日本新人王、日本チャンピオンを得て97年12月にヨックタイ・シスオー(タイ)を判定で下しWBA世界フライ級王座を獲得。2度の防衛に成功。99年2月に現役引退を発表。プロ戦績は25勝(11KO)2敗1分け。現在は東京・中野に「飯田覚士ボクシング塾 ボックスファイ」を主宰し子供から大人まで楽しい体作りを指導。ジム最寄り駅は東京メトロ・丸ノ内線方南町駅。

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