2024年全米図書賞、翻訳部門受賞・楊双子が古内一絵と語った執筆背景「舞台は日本統治時代の台湾。若い世代に、自分たちの歴史を伝えていきたい」
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1938年、日本統治時代の台湾に招待され、各地を旅して講演を行う日本人作家・青山千鶴子と、台湾人通訳・王千鶴(おうちづる)の交流を描いた小説『台湾漫遊鉄道のふたり』。その作者である楊双子さんが台湾から来日し、夜食カフェ物語「マカン・マラン」シリーズなどが人気の作家の古内一絵さんと、作品や日台の歴史について語り合った。(写真提供◎株式会社RAINBOW)
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【書影】アメリカで最も権威ある文学賞の1つ、全米図書賞で翻訳部門受賞を受賞した『台湾漫遊鉄道のふたり』(著:楊双子、訳:三浦裕子)
台湾の食べ物と風景と
古内 『台湾漫遊鉄道のふたり』は、台湾の美味しい食べ物がたくさん登場し、読んでいると目の前に台湾の風景が浮かぶようなすばらしい文章で、とても面白く読みました。
私が興味をひかれたのは、日本統治時代を舞台にしているというところです。この作品は、どんなところから着想されたのですか。
楊 私は1984年生まれですが、大学に入るまで、日本統治時代についてはあまり教えられてこなかったんです。大学に入ってから日本統治時代について勉強したことを、ぜひ同時代の読者の方に知ってもらいたいと思いました。
そこで、どのようにしたらいいか、と考えたときに、実際に当時の人が食べたものや風景、台湾縦貫鉄道をリアルに描写することから始めようと思いました。また、私の知らない日本統治時代を描くにあたっては、日本の漫画が参考になりました。特に影響を受けているのは三つの作品で、まずは『駅弁ひとり旅』(監修・櫻井寛、作画・はやせ淳)。弁当や食べ物の描き方が参考になりました。二つ目は、『ゴールデンカムイ』(野田サトル)。私たちの知らない時代をリアルに描いています。もう一つは、『乙嫁(おとよめ)語り』(森薫)。これも私にとっては大変重要な作品でした。
古内 日本の漫画をたくさん読んでいらっしゃるんですね。私よりずっとお詳しい。
(笑)
楊さんがおっしゃったように、この本にはストーリーと関連したたくさんのお料理が登場します。お料理を決めてから話を作ったのでしょうか。それとも話のモチーフが先ですか。
楊 最初は、台湾の宴会料理12品をもとに12 章からなる小説にしようと思いつきました。そのあと、物語の展開に合わせて内容を調節していきました。日本統治時代の宴会料理のことは、いまの台湾人はほとんど知らないと思います。戒厳令下(1949〜87年)では日本のものは否定されていたので。私も資料で知りました。
宴会料理は軽いもので始まって、最後は汁ものや麺が出て締めるというところが、物語の起承転結と似ていると感じました。一緒に食べる料理を通して二人の関係性が分かるように、その場面にふさわしいものを描きました。
古内 小説と料理は確かに似ているところがありますね。章のタイトルになった料理の他にもたくさんの食べ物が登場しますが、楊さんはすべて召し上がったのですか。
楊 できるだけ食べるようにしました。ただ、生のひまわりの種は食べていません。農家の人たちが家で食べるもので、流通することはまずないのです。
主人公のモデルは林芙美子?
古内 この小説には、青山千鶴子さんというよく笑いよく食べる日本人作家が出てきますが、彼女のモデルは林芙美子と聞きました。実は、私も今年の夏に『百年の子』という、学年誌の百年の歴史を辿った小説を出すのですが、そこに林芙美子をモデルにした人物が登場するので、その偶然にシンパシーを感じました。そもそも、どうしてこの小説に日本の作家を登場させようと思ったのでしょうか。
楊 林芙美子は、満洲(現中国東北部)やヨーロッパを旅行していますが、台湾にも来たことがあるんです。この時期にそういう女性作家がいたということは、青山千鶴子を描くうえでの説得力になる、と思いました。台湾人通訳の王千鶴にもモデルがいて、同時代の台湾人の女性記者、楊(よう)千鶴です。当時男性ばかりだった新聞記者という職業につき、スポーツも得意で活動的な女性だったそうです。読者から、こんな女性いるわけない、と言われたときに、この時代にも活躍していた女性がいた、という説得力を出したかったのです。
2014年に、私は亡くなった共同制作者の妹と九州を旅行したのですが、そのときに(福岡県北九州市の)林芙美子記念室を訪れ、彼女が出した絵はがきなど、さまざまな資料を見ました。彼女は、大変な成功を収めた作家だったのですね。
古内 この対談の前に、新宿区にある林芙美子記念館に行かれたそうですが、どうでしたか。
楊 林芙美子の住まいを保存している記念館が新宿にあるとは知りませんでした。もし執筆前に知っていたら、記念館の間取り図をこの小説で使っていたと思います。
古内 日本人でも、林芙美子が台湾に行っていたことは知らない人が多いのではないでしょうか。この本のあとがきにはそのことが書いてあるので、この本を通して知る人も多いと思います。
楊 林芙美子は、台湾の旅館で、日本から働きに来ていた女中さんと言葉を交わしたことをエッセイに書いています。私は大学院のときにその文章を読んで、衝撃を受けました。戦前に台湾に来て台湾について書いた日本人作家がいたということを、なぜいままで知らなかったのかと。自分のその衝撃を、小説を介して読者にも投げかけたいと思いました。
古内 この小説では、青山千鶴子と王千鶴の二人の心のすれ違いの理由がわかってくるところが、とても日本人の心を打つものになっていたと思います。日本人である青山千鶴子の無邪気な善意の暴走と、無自覚な差別は、日本統治下の台湾に限らず、いまでも、あちこちで起こっている問題だと思うんですね。そういうセンシティブな問題を、明るいエンターテインメントの形に仕上げていることを、私はとても魅力的に感じます。そのあたり、ご自分はどのように考えて書かれたのかを教えていただけませんか。
楊 台湾の現代史を振り返ってみると、日本と台湾、統治者と非統治者、植民する側とされる側の関係は、非常に大きなテーマで、台湾でもさまざまな意見があり、研究もなされていますが、簡単に結論が出るものではないでしょう。私は、このような重い課題は、大衆文学、つまりエンターテインメントとして読者に問いかけてみるのがよいのではないかと考え、この小説を執筆しました。軽い方法で重いテーマを描く、というのが私の創作のスタンスなのです。
戦争を描くこと
古内 実は私も、これまでに『十六夜(いざよい)荘ノート』『鐘を鳴らす子供たち』など、戦中戦後をテーマにした小説を4作品ほど発表してきています。
なぜ、戦争のことを書くのか――。
私には、両親と祖父母の記憶を残していきたいという願いがあります。戦争の体験者である両親と祖父母の記憶を残しておきたい。彼らの味わった苦しみを二度と繰り返さないために、小説として残しておきたい、という願いがあって書き続けているのです。
私よりかなり若い世代の楊さんが、歴史小説、特に日本統治時代を書くのはどうしてなのでしょうか。
楊 私たちの世代はもちろん戦争の記憶はありません。私が日本統治時代を描く理由は、古内さんとも共通するところがあると思います。
戦後、台湾人は学校で中国の歴史を学んできました。かつて、私の父やおばに「台湾は戦争中に空襲を受けたけれど、攻撃したのはどこの国だったの?」と聞いたところ、「日本だ」と答えていました。
台湾は日本統治下にあったのだから、日本が攻撃するなんておかしいですよね。つまり、親の世代の歴史教育では日本統治時代のことには全く触れられていない。代わりに中国の歴史を教えられているのですが、それが中国史であって台湾史ではない、ということに気づいていなかったのです。
それがショックで、私たちは、いまの若い世代に、小説などを通して自分たちの歴史を伝えていかなければいけないと感じました。
古内 日本による空襲があったのは大陸の話ですよね。楊さんのご両親の世代は、中国大陸の歴史を自分たちの歴史として勉強してきたということですね。
楊 そうです。2000年の政権交代後、歴史教育が変わり、私の高校、大学時代には台湾の歴史を学ぶようになっていました。2014年の「ひまわり学生運動」もまた、自分たちの歴史を学ぼうという気運を高めたと思います。
歴史を知るきっかけ
古内 この『台湾漫遊鉄道のふたり』が、まさに自分たちの歴史を学ぶきっかけになりますね。
楊 私は、考えるきっかけを作りたくてこの本を書きましたが、決して、日本人を詰問するつもりはありませんでした。翻訳を読んだ日本人の方がどのような感想を持たれるか、とても気になります。
古内 私自身は、大変勉強になりました。そして、80年代生まれの作家さんがこのような小説を書かれていることは刺激になります。日本人の読者にとっては、台湾の食文化や風俗を知ることができ、さらに、自分たちの間にはこういう歴史があったということを知る、とてもいいきっかけになる本だと思います。
楊 ありがとうございます。
古内 今日はたくさん面白い話を聞かせていただき、本当にありがとうございました。
日本で美味しいものをたくさん食べて、楽しい思い出を作って帰っていただきたいと思います。
(この対談は台湾文化センターと紀伊國屋書店の共同企画で、2023年5月28日に紀伊國屋書店新宿本店で行われたものです)
11/24 13:00
婦人公論.jp