佐藤ヒデ「94歳の私が体内年齢《36歳》!?東北ひとり暮らし、毎日3食きちんと食べて、朝はラジオ体操、夜は湯船で身体を動かす」

折り紙で作ったお花を手に。着物をリメイクした洋服が壁に並ぶ(撮影:本社・武田裕介)
血管のしなやかさ、硬さを示す血管年齢は20歳、基礎代謝の数値をもとにした体内年齢は36歳。佐藤ヒデさんは2023年9月に受けた健康診断で驚異の数値を出して、広く知られるようになりました。その若さの秘訣と暮らしぶりとは(構成=塩坂佳子 撮影=本社・武田裕介)

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【写真】震災後に作り始めたちりめん人形

三食は当然!ラジオ体操を日課に

健康診断の数値を見て、最初は看護師さんたちも、機械の故障じゃないかといってたんです。でも、同じ機械で測った別の人の数値は年相応だったから、合っているなあ……と。でもあれ以来、こんなに大げさに取り上げられるようになり、自分が一番驚いています。(笑)

同い年だった夫は60歳の時に病気で他界。2人の子どもも独立したから、もう35年間、生まれ育った陸前高田市で一人暮らしをしています。

朝は5時半に起きて、洗濯機と炊飯器のスイッチを入れ、部屋に掃除機をかける。6時25分になったら、テレビをつけて体操をするのが日課です。腰は少し曲がってしまいましたが、ラジオ体操第1はフルでやり切りますよ。

朝ご飯は、近くに住む甥が顔を出すかもしれないので、いつも2~3人前作る。余ったら昼か夜に食べればいいですしね。

お風呂は毎日必ずお湯に浸かるようにしています。湯船のなかで、足踏みするみたいに足首を動かすこと500回。健康のための運動といったら、それぐらいですかねぇ。

冷凍庫には朝食用の干物が

最近、人から話を聞かれるようになって驚いたのは、「ヒデさん、90代で朝ご飯食べるんですか? よくお腹が空きますね」といわれること。

私は食べるのが普通だと思ってきたけれど、あれ、朝ご飯はお腹が空くから食べるものだったっけ? と。

朝は魚と納豆、昼は野菜、夜はお肉を中心に、毎日三食きちんと食べています。お酒も若い頃からいける口。今でも甥っ子と居酒屋に行ったら、生ビール1杯ぐらいはいただきますよ。赤ワインも好きですね。

年を重ねて元気がなくなる、という方は、食べなくなるからじゃないかしら。

80代で亡くなったうちの母は、いつも好きなものをうんと食べていました。私は母の、そういうところを受け継いだのかなぁ(笑)。そういえば彼女も、最期まで頬にシミひとつなかったわね。

子どもの頃から「どべっこ」が大好物

私は7人きょうだいの6番目。もうみんな亡くなってしまったのだけれど、晩年まで元気な人が多かったですね。一番上の姉は亡くなる直前までシャキシャキ歩いていたし、2番目の姉なんかは、くも膜下出血を3回も起こしたのに、100歳まで生きましたよ。

父が若くして事故で亡くなった後、当時10代後半だった兄姉たちが親戚からもらったアイスキャンデーの機械で商売を始めたの。家族を食べさせるために、親代わりに必死に働いてくれたんです。そのうち果物なんかも扱い出して、最盛期には350人もの社員を抱える、食料品の卸しやスーパーも手掛ける大きな会社に成長しました。

母は子どもたちの裏方に回り、何もいわずにせっせと家事をしてくれて。私は幼かったから、そんな時でも遊んでばかり。小学校では陸上、女学校ではバレーボールをしていました。運動が大好きだったんです。家に帰ったら、母が出してくれるものを食べる。「とにかく食べることが大事」と母はよくいっていましたね。

子どもの頃からずっと飲んでいるのは甘酒です。地元の酒蔵「酒造」の酒粕で作るどべっこ(甘酒)が大好物。どべっこは体にいいと聞くから、あれがよかったのかもしれないわね。今でも飲んでいるのですが、毎年、春頃にしか売り出されないから、年中飲めるわけではないんです。

でも今年の夏、知り合いが酔仙の酒粕を使って自分で作ったどべっこを持ってきてくれたの。びっくりして、これどうしたの? って聞いたら、酒粕を自分で冷凍保存しているそう。なるほど! と目から鱗。来年から真似をしてみたいと思っています。

80歳で被災。自分にできることは

30歳で結婚するまでは家事手伝いをしていました。夫が銀行員だったので、結婚してからは転勤族。当時は単身赴任なんてなかったから、2人の子どもを抱えながら、東北各地を40ヵ所以上も引っ越しました。大変だったけれど、行く先々でさまざまな人と出会い、大変勉強になりましたねぇ。

夫が亡くなってからは、生まれ育った陸前高田に戻り、家業の手伝いを始めました。親戚や友人がたくさんいたから、一人暮らしでも寂しくはなかったわね。

東日本大震災が起きた時は、ちょうど80歳。津波で家を流されてしまい、約3年間、仮設住宅での暮らしになりました。

あの時、脳裏に浮かんだのは、20歳の時に見た、戦後まもない時期の東京。女学校に通うために行っていたのですが、誰もが焼け野原で必死に生きている姿は、それこそ津波以上にひどい状態でした。道のわきで売られていた、大きな鍋で炊いた雑炊を、みんながボロボロの恰好ですすって食べているんです。

自分の父が亡くなった時は、まだ幼くて出番がなかったけれど、いつか私も周りのために何かしたい! そんな思いが根底にありました。だから仮設住宅で暮らしながらも、支援を受けるばかりでなく、自分にできることはないのかと考えていたんです。

それで、最初の避難先だった公民館で教わった「ちりめん人形」作りに挑戦しました。私が作った人形を見て、娘を亡くしたお母さんが、いきなり飛びついてきてね。「これ、娘だと思って大事にするからちょうだい!」と。

こんなに小さなものでも人の気持ちを癒やすことができるんだ、それならもっと作ってみよう、と一念発起したんです。

それからは、朝から晩まで夢中で人形を作りました。市議会議員をしている甥の力も借りながら、神社やお寺に500体ほど預けて、お参りに来る人に無料で配ってもらったの。

震災時に真っ先に支援してくれた台湾の人たちにお礼を伝えるためのツアーにも、頼んで持って行ってもらいました。直接感謝を伝えられたわけではないけれど、新しい人と繋いでくださる方や、人形作りのお手伝いをしてくださる方がたくさんできて嬉しかった。

自分から働きかけると、縁が繋がり、今度は自分が元気をもらう。人との繋がりや交流が、一番の健康の秘訣かもしれないわね。

後編につづく

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