千利休の刀を前に覚悟して。101歳の元特攻隊員、千玄室大宗匠の願い「なぜ自分だけが生き残ったのか。<茶の湯外交>から平和を願う」【2024年上半期BEST】

「上官たちに〈お前たちは、死にに来たんやろ〉〈全員、死にに来たんや〉と繰り返し言われるのですから。つらかった」(撮影:霜越春樹)
2024年上半期(1月~6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年05月23日)
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千利休から数えて十五代目となる茶道・裏千家の千玄室大宗匠。戦中は特攻隊に志願し、戦後は国内外で茶の湯を通じて平和を訴える活動を続けています(構成=野田敦子 撮影=霜越春樹 写真提供=裏千家)

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<前編よりつづく

別れを覚悟した特攻隊での茶会

1943年12月、学徒出陣により第14期海軍飛行専修予備学生の試験に合格して大日本帝国海軍に入隊。

出征の前夜、十四代家元である父は息子を茶室に呼び、千利休が自刃した刀を置いて、「よく拝みなさい」と言ったという。「千家の長男であることを忘れるな」と伝えたかったのだろう。母の嘉代子さんはそっと席を離れ、琴で「六段」を奏でた。断腸の思いだったに違いない。

――舞鶴海兵団では、試験、試験、また試験。これらを通過した者だけが海軍の予備士官として採用される仕組みなのです。合格した私は、茨城県の土浦海軍航空隊へ。その後の試験で私を含む約700名が合格し、徳島海軍航空隊に転属、陸上偵察機の訓練を受けることに。

それからは、もう、大変なことでした。1年半かかる訓練を「君たちは10ヵ月でやれ」と命令され、目的地までの航法、通信、暗号解読、射撃、爆撃、写真撮影などをたった一人でやらされる。しかも、上官たちに「お前たちは、死にに来たんやろ」「全員、死にに来たんや」と繰り返し言われるのですから。つらかった。

そこで親友になったのが、後に俳優になり、テレビドラマ『水戸黄門』で2代目水戸黄門を務めた西村晃です。背の高い私と背の低い西村は、まさに凸凹コンビ。出征前に結婚していた西村は、よく「俺は死にとうない」とつぶやいていましたよ。

1945年3月、「本土決戦を前に特別攻撃隊が編成される場合に備え、熱望・希望・否のいずれかに丸をつけよ」という紙が配られ、私も西村も「熱望」に丸をつけました。「否」を選んだら、かえって最初に突撃させられるのではないかと思ったからです。その1週間後、「全員、特別攻撃隊として出撃する」と発表されました。いわゆる特攻隊です。

徳島海軍航空隊の基地で野点をする大宗匠。携帯用の茶箱でお茶を点て、振る舞ったという(写真提供=裏千家)

徳島での訓練が終わると、誰からともなく「千ちゃん、お茶にして」と。私は常に携帯用の茶箱を持って移動していたのです。いつものようにみんなで集まり、野点(のだて)をしました。

お菓子は、配給のようかん。「うまいなあ、千ちゃん」「わしのおふくろ、お茶やっててな。正座させられるし、お菓子も我慢せなあかんし、かなわんなあと思うてた。でも、おふくろのお茶がもう1回、飲みたいなあ」。

それを聞いていた西村が、「おふくろに会いたいなあ」とボソッとつぶやいたかと思うと勢いよく立ち上がり、故郷を向いて「おかあさーん!」と叫んだのです。最初こそ笑っていたみんなも、堰を切ったように「おかあさーん!」「おかあさーん!」と声を限りに叫びました。

忘れられないのは、京都大学出身の旗生良景(はたぶよしかげ)の言葉です。「千ちゃん、俺がもし生きて帰ってこれたら、お前のお茶、ほんまもんのお茶室で飲ましてくれや」。そのとき、「あ。帰れないのだ。全員、死ぬのだ」という思いが胸に迫りました。今でも旗生の「千ちゃん」という声がはっきりと聞こえます。

1945年5月、約60名の仲間と白菊特攻隊として、鹿児島県の串良(くしら)へ。しかし、私が出撃することはありませんでした。寸前に待機命令が出たのです。「どうか行かせてください!」という必死の懇願も空しく、予科練習生の教官として松山海軍航空隊へ。そのまま終戦を迎えてしまいました。

翌年5月1日。文部省に書類を出すために東京の街を歩いているときでした。目の前を「演劇労働組合」と書かれた旗を掲げた行列が横切ります。「ああ、今日はメーデーか」と思っていると、「千ちゃーん」という聞き覚えのある声が。

「演劇労働組合から呼ばれることなんてないのに」と声のするほうを見ると、旗の向こうに死んだはずの西村が立っているではありませんか。思わず駆け寄り、泣きながら抱き合いました。文部省での用事などすっかり忘れ、私も新橋まで一緒に歩いて。

西村は出撃したものの不時着により命を取り留めたのです。このときばかりは、生き残って再会できたことを心からうれしく思いました。

一わんのお茶を世界70ヵ国へ

1949年、千玄室さんは大徳寺の僧堂で禅の修行に入る。代々、次期家元が若宗匠の格式を得るために行う千家の伝統だ。軍隊が「命令」の世界だとしたら、僧堂は「無言」の世界。粗食による空腹や坐禅中に襲われる睡魔にも苦しんだが、何を尋ねても沈黙で返す先輩修行僧の無視が一番つらかったそうだ。

厳しい修行を通して「平常心とは何か」を学び、翌年、若宗匠に。十五代継承者として正式に認められた。

――修行後も、なぜ自分だけが生き残ったのかという、忸怩たる思いを抱えていた私に転機が訪れたのは1951年。約2年間のアメリカ行脚に出発したときです。きっかけは、CIE(連合国軍総司令部の民間情報教育局)から、アメリカに茶道を紹介してはどうかという話が来たこと。

父に「行くか」と聞かれたときは、「行きませんよ! 仲間はみんなアメリカとの戦争で死んだのです。絶対に行きません」と言ったものの、修行させていただいた大徳寺管長の後藤瑞巌(ずいがん)老師に「日本の伝統を伝えてきなさい。そして負けた国の人間の目で勝った国を見てきなさい」と諭され、決断しました。

当時の日本はアメリカの占領下。パスポートなんてものはありません。「占領国民として、保護されたし」と書かれた紙きれ1枚を持たされて、日本人のネットワークを頼りに、都市から都市を旅しながら各地の大学や文化施設でお茶のデモンストレーションをするのです。

激しい黒人差別を目の当たりにし、アメリカの民主主義なんてこんなものかと失望もしました。同時に茶の湯の教え「和敬清寂(わけいせいじゃく)」の、どんな人も区別せず、互いを敬いながら、和やかにお茶をいただく精神のすばらしさを再認識することにもなったのです。

これが私の今日まで続く「茶の湯外交」の始まり。結婚後は、妻と「一わんからピースフルネスを」を理念に、世界のさまざまな国や地域を訪ねました。「ピースフルネス」は世界に満ちあふれんばかりの平和をという願いから生まれた造語。戦争という地獄を二度と繰り返すまい、という決意も込めています。

パスポートのないアメリカ行脚から73年、妻を亡くした後も一人で旅を続け、訪れた国は70ヵ国に上りました。

幸せに生きるため今を大事に

先月も、ハワイ大学で講義をしてきたところです。「どんな生活をすれば、そんなに元気でいられるのか」と驚かれますが、毎日規則正しく暮らしているだけ。特別なことはしていません。

朝は4時に起床。海軍体操をして坐禅を組む。洗面後、利休居士はじめ歴代のご先祖にお経を上げ、庭にある2つの社に手を合わせてから5時に朝食。最近は、パンに野菜とミルクかみそ汁が多いですね。

昼は会合などの予定をこなし、夕食は家族と一緒にいただきます。夜7時にはすべての食事を終え、それ以降は一切飲食しません。日記をつけて、8時就寝。若いときから酒も煙草もやりません。

皆さん、年をとるのが怖いとおっしゃるけれど、寿命というものは決まっているのですよ。生まれた以上みんな死ぬのです。人間、誰もが裸で生まれ、裸で死ぬ。その覚悟はありますか。

今の60代や70代の方々は戦後生まれだから、苦しいときももちろんあったでしょうが、ほとんどが安穏とした時代に育ち、結婚して家事・育児をしてこられたはずです。最愛の夫と別れた人も、「この野郎」と思いながら一緒に生活している人もいるでしょう。夫婦なんてそんなものです。年とともに一緒に暮らす同居人になっていく。それで十分、幸せなのです。

子どもだって、「あんなに可愛がったのに、介護も世話もしてくれない」と不満に思うかもしれませんが、そういうことも笑ってすませるような、大らかな気持ちを持ちたいものです。

仏様はおっしゃいました。「一切皆苦(いっさいかいく)」。幸せなんて一瞬。人生のすべてが苦しみだと。あなただけではない。みんな、心を痛めている。誰もが苦しんで生き、苦しんで死んでいくのです。

だからこそ、大らかな気持ちを持って、手を取り合いましょうよ。せめて生きている間は、なにかいいことをしようではありませんか。新聞の人生相談には、孤独ゆえの悩みが数多く寄せられています。気持ちはわかるけれど、人間は基本、一人で生きていくのです。

私ども裏千家の庵号は、今日庵(こんにちあん)。千利休の孫・千宗旦(そうたん)が名付けました。今日の出会いが尊いものであるという強い思いを託したのでしょう。

そう、今日が大事なのです。明日がどうなるかは誰にもわかりません。どうか、過去を振り返らず、将来を憂えすぎず、今を大切に生きてください。皆さんの和やかな生活を心からお祈りします。

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