安田大サーカス・団長安田「阪神・淡路大震災で、親友がいる崩壊したビルに声をかけ続けて。友を亡くして、僕は芸人になった」

「震災は人の心をこんなにも変えてしまうのか――。そんな大人たちの姿が、20歳の僕にとっては最大の衝撃でした」(撮影:本社・武田裕介)
『婦人公論』8月号(7月15日発売)では、「豪雨、地震、台風……今すぐ見直すわが家の防災」という特集を組み、自然災害への備えについて特集しました。そのなかから、選りすぐりの記事を配信します。
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いつもダブルピースで笑顔を届ける安田大サーカス団長安田さん。20歳のときに阪神・淡路大震災で被災し、親友を亡くしました。芸能界に入ってからも、当時の映像は見られず、経験を語ることもできなかったと言います(構成:内山靖子 撮影:本社・武田裕介)

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【写真】1995年1月17日付の『読売新聞』夕刊より。恵介さんが亡くなったビルの前に佇む安田さん(中央)が偶然写っていた

成人式の2日後に街は一変

1995年1月17日の早朝、阪神・淡路大震災が起きたとき、僕は20歳。まだお笑い芸人ではなく、兵庫県西宮市にある実家で、両親と3人で暮らしていました。

寝ていると、「グォー、ドンドンドン!」と、下から何かが突き上げてくるような感覚があって、いきなり自分の体がベッドの上で飛び跳ねた。その瞬間、ガラスがパリンパリンと割れる音もして。でもまだ若かったから、「もう一度、寝たろ」と眠たさが勝っちゃった。

そうしたら、「こんなときに、なんで寝てんの!」と、僕の部屋に血相を変えてぶっ飛んできた母親に怒鳴られました。その声で起き上がると、ベッドの真横の壁にスキーブーツが突き刺さっていたんです。多分、タンスか何かの上に置いてあったのが飛んできたんでしょう。それを見たときにようやく、これはただごとじゃないと実感しました。

母親も気が動転していたのか、「探してたスキーブーツ、あったやん……」と。今、それ言う!? ってね。(笑)

近所に住む兄夫婦もすぐにやってきました。同じ西宮の山側でひとり暮らしをしているおばあちゃんが心配だったので、車で様子を見に出たんです。結果的に家族は全員無事でしたが、そのときに見た光景は今でも忘れられません。

いたるところで建物が倒れ、あちこちで火の手が上がっている。これ、どうやって元に戻るんやろう、と思いました。信号の灯も消えていたので、道路は大渋滞でクラクションが鳴り響き、怒鳴り声も聞こえてくる。

おまけに、JR甲子園口駅まで来たら、ロータリーが塞がって前に進めない。しゃあない、戻ろうと思ったときに、駅前にあったビルが崩れて倒れているのが目に入ったんです。

その瞬間に「これはヤバい」と。というのも、幼稚園の頃から親友だった山口恵介のおばあちゃんちがそのビルの中にあって。恵介の実家は別の場所なんですが、駅に近いおばあちゃんちが便利だからと、恵介はよく泊まりに行ってたんです。

大慌てで恵介の実家に電話したところ、「昨夜も、おばあちゃんちに泊まった」と。恵介とは、2日前に一緒に成人式に出たばかり。「ようやく、俺らも大人やな」って盛り上がり、式典の後にみんなでワイワイ飲みに行ったのに。その恵介が、倒壊したビルの中に閉じ込められているかもしれない。

いてもたってもいられず、崩れたビルの前に駆けつけて、「お~い、恵介!」と声をかけました。ショックで当時の記憶は曖昧ですが、そのとき、誰かの声が聞こえたような気がしたんです。友達も次々とやってきて、救助が来るまでなんとか生きていてほしいという願いを込めて、朝も夜も交代で、みんなで声をかけ続けました。

でも、残念ながら……。崩れたビルの下から生きて救出されたのは、1匹の猫と女の子1人だけだったと思います。後は、恵介のおばあちゃんも含めて全員が亡くなりました。なんで、こんなことになったんやろう? 20歳になったばかりで、俺らこれからやのに……。

震災から5日後に、遺体が収容された武道場に行くことができました。恵介の亡骸と向き合うのが怖くて、顔を見られなかったんです。でも「見てあげて」とお母さんに言われて。腫れあがった恵介の顔を見たら涙が溢れてきて、どんな泣き方をしたのか覚えていないくらい泣きました。

ゴールの見えない被災者の生活

マンションの1階にあったわが家はガラスが割れたり、家具が倒れたりしたものの、そのまま住み続けることができる状態でした。

一番困ったのは水。しばらく水が出なかったので、給水所までもらいに行くんですが、水を入れるには容器が必要でしょう。灯油を入れるポリタンクはあったけど、さすがに飲み水は入れられないので新しいのを買おうとしたら、めっちゃ高い! 普段は数百円のポリタンクが2000円とか。こんなときでも、儲けようとしているヤツがおるんかいって。

でも、しゃあないからそれを買い、近所の公園に設置された給水所まで、僕が毎日せっせと通っていました。

食料は、僕らの周りは意外に早く配給が回ってきたので、お腹がペコペコで困ったという記憶はありません。おにぎりとかカップ麺とか、いろいろご準備いただいて、途中からはむしろ余っていたくらいです。

ガスが使えないのにカップ麺が食べられたということは、うちにカセットコンロがあったんかなぁ?30年くらい経つとその辺の記憶もなんだか曖昧なんです。

ただ、はっきりと覚えているのは、いたるところで大人がケンカして、いがみあっていた姿です。食べ物は余っているのに、「あいつ、たくさんもらいすぎや」と文句を言う人とか、僕ら家族がもらったおにぎりを盗んでいったヤツもいました。

避難所で生活していた見知らぬ人に、「あっちのほうが日当たりええ。不公平や」と、陰口を聞かされたこともあります。

それもこれも、みんな頑張りすぎちゃってるからなんですよね。家が倒れ、街が崩壊して、いつ元通りに戻るかもわからない。被災者の生活は、たとえて言うならば、ゴールが見えない長距離走のようなもの。

そんな先の見えない状況の中で、「頑張らなあかん!」と、ずっと張り詰めて過ごしていると、心に余裕がなくなってイライラする。その苛立ちをぶつけるところがなくて、それまで仲が良かった人とも仲たがいしてしまう。

震災は人の心をこんなにも変えてしまうのか――。そんな大人たちの姿が、20歳の僕にとっては最大の衝撃でした。

その経験から、今、僕が震災の話をするときは、「被災後は頑張りすぎず、ボチボチやりましょう」と、お伝えするようにしています。

「テレビに出てご飯を食べられるようになったのも、『あのときの語り部になれ』と、亡くなった人たちが背中を押してくれているような気がして、防災に関する講演も行うようになりました」

死ぬことに比べたら平気やんけ

僕が芸人になったのは、震災を経験したからです。芸人になりたいという夢はあったものの、売れなかったら恥ずかしいと思って、なかなか一歩を踏み出せなかった。

だけど、亡くなった恵介の顔を思い出すたびに、「死ぬことに比べたら、ぜんぜん平気やんけ」と思えてきて。人生、いつ何があるかわからんから、やりたいことがあるなら早くやらなきゃと、震災があった年の7月に松竹芸能養成所の試験を受けたんです。

おかげさまで、今、こうして芸能界で仕事をさせてもらえるようになりました。でも、阪神・淡路大震災で経験したことは人前ではずっと話せず、ニュースの映像すら見られないままでした。人を笑顔にするのがお笑い芸人やのに、悲しい話はどうなのかと思ったし、記憶がよみがえるのもつらくて。

転機になったのは、2011年3月に起きた東日本大震災です。あの日、僕は都内の公園でロケをしていて、その最中に大きな揺れがやってきました。揺れが収まった後、その公園に近所のビルからサラリーマンたちがわらわらと押し寄せてきて、これはただごとじゃないと、急いで家に帰ったんですよ。趣味のロードバイクで現場に来ていたのが幸いでした。

大変な被害を受けている被災地の様子を見て、先輩芸人に「今こそ、おまえの経験を伝えておいたほうがいいんじゃないか」と言われたんです。少しでも被災した人たちの助けになればという思いで、自分の体験をブログに綴ることにしました。

もう1つのきっかけは、あるお坊さんに言われた言葉です。「人間には2つの死がある。1つは肉体の命が絶たれたとき。もう1つはその人の名前が忘れられたときだ」と。

だったら、僕はあの震災で犠牲になった人たちの話を伝えなきゃいけないんじゃないか。テレビに出てご飯を食べられるようになったのも、「あのときの語り部になれ」と、亡くなった人たちが背中を押してくれているような気がして、防災に関する講演も行うようになりました。

いざというとき助けてくれるのは

講演やブログでもお伝えしていますが、災害が起こった際に何よりも必要なのは水です。つい洗い流したくなってしまうけれど、お風呂に残り湯を貯めておけば、生活用水として、2、3日は使えます。

あと、実際に被災した経験から言うと、食品用のラップがめっちゃ活躍するんです。食器を汚さずに済むし、寒いときは体に巻けば防寒具代わりにもなる。

また、当たり前かもしれないけれど、足の裏をガラスで切ると何もできなくなるから、地震が起きたら、家の中でも絶対に裸足で歩かないこと。普段から、枕元にスニーカーか、スリッパでもいいので何か履き物を置いておけと、うちのヨメと子どもたちにも言うています。

そして、何よりも大切なのは人とのつながりです。以前、番組の取材でお話を伺った、ヨットで世界を一周している方によると、「海で嵐に遭ったり、座礁するかどうかは運次第」なんだそう。自然災害もそれと同じで、どんなに気をつけていても避けられない。

いくら念を入れて食料や防災グッズを備蓄しておいても、地震で家ごと潰れてしまったり、火事で燃えてしまうこともあるでしょう。そんなとき助けてくれるのは、やっぱり人なのだと僕は思います。

そのために、日頃から近所の人に会ったら「おはよう」の一言でいいから挨拶を交わしておくといいですよね。人間は、一言もしゃべったことがない人は助けづらい。

でも、普段から挨拶を交わしている相手が困っていたら、食料だって分けてくれるだろうし、「あそこに行くとこれがもらえるよ」という情報も教えてくれるでしょう。だからこそ、「笑顔で挨拶」が大切。そんな些細な習慣が、いざというときに自分を助けてくれるのだと思います。

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