日本初の民間銀行の土台となった三井大坂両替店。奉公人は10歳住み込みで働き、勤続30年で店外の自宅をもてるように。年功序列の階級と待遇の実態とは

日本初の民間銀行創業の発端となった「三井大坂両替店」。今回は、大坂両替店における奉公人たちの待遇について紹介します。(写真はイメージ。写真提供:写真AC)
日本初の民間銀行創業の発端となった「三井大坂両替店」。1691年に開設されたが、元は江戸幕府に委託された送金役だったという。そこから、民間相手の金貸しへと栄えるまで、どのような道のりだったのか。三井文庫研究員の萬代悠さんが、三井文庫の膨大な資料を読み解き、事業規模拡大までの道のりを著した『三井大坂両替店』(中公新書)。今回は、江戸や京都にもあった三井両替店の中で、最も成長率が高かった大坂両替店における奉公人たちの待遇について紹介します。

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【書影】三井はいかにして日本初の民間銀行創業へとつながる繁栄を築いたのか『三井大坂両替店』

奉公人の待遇

大坂両替店で実際に働く奉公人について説明する。京都呉服店に関しては西坂靖の重厚な研究があるので〈西坂靖『三井越後屋奉公人の研究』(東京大学出版会、2006年)、友部謙一・西坂靖「労働の管理と勤労観――農家と商家」(宮本又郎粕谷誠編著『講座・日本経営史1 経営史・江戸の経験――1600〜1882』ミネルヴァ書房、2009年)〉、西坂の研究を参考にしながら、大坂両替店の特徴を示しておきたい。

奉公人には、店表(たなおもて)と台所(だいどころ)という二種類の区別があった。店表とは、いわゆる営業部門に相当し、これは手代と子供(丁稚)に区別された。手代は一人前の従業員であり、子供は手代を補助する半人前の従業員だ。

子供は、16〜19歳の元服を経て手代に昇進した。一方、台所とは、炊事などの家事労働や接客以外の単純労働に従事する家事・雑務部門に相当した。平(ひら)の奉公人たちは、住み込みで共同生活を営み、すべて男性から構成されていた。

店表と台所の違いは、業務内容だけにとどまらない。勤務形態と方針も異なった。店表の場合、勤務形態は「手代奉公」と呼ばれた。「手代奉公」は、営業熟練者の養成を目的とし、10年以上の長期雇用を想定したものだ。

これに対し台所の場合、勤務形態は「下男(げなん)奉公」と呼ばれた。「下男奉公」は、早めの給金の取得を目的とし、半年または1年の短期雇用を想定したものだ。以下では、とくに断らない限り、店表の奉公人について解説する。

店表の奉公人は、多くの場合、子供からはじまった。基本的には、大坂および大坂周辺から集められ、入店する年齢は10〜13歳だ。親元から離れた子供たちは、住み込み生活を約5年続けたうえで、元服し、手代に昇進できた。

少年時代から入店し、店内で養育された者のことを子飼(こがい)といった。三井の主眼は、子飼いを一人前にすることにあった。

一人前の手代になった後

しかし、子供が一人前の手代になっても、住み込み生活は変わらなかった。表1は、大坂両替店の奉公人の職階を示したものだ。

『三井大坂両替店――銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(中公新書)より

子供が手代に昇進したあと、まず初元(はつもと)として3年間くらい勤め、手代の末端として業務の習熟に努めた。そして初元の4年目には、平の手代に昇進した。このあとも、職階の階梯を一段ずつ登っていくことになる。

平を約6年、入店して16年ほど勤続すると、役づきの手代に昇進した。このとき26歳前後だ。さらに勤務を続け、勤続23年目、33歳前後には、住み込みの最上位として店を統括する支配に昇進した。そして勤続30年目、40歳前後に至ると、別宅手代に昇進した。

別宅手代になると、店外の自宅から重役として店に通勤するようになり、経営の監督や意思決定を担当した。彼らは、この時点ではじめて妻を迎え、家族を持つことができた。ようやく住み込みから脱したわけだ。

なお、職階については、京都呉服店に比べて大坂両替店のほうが簡素化されていたが、両方とも別宅手代になる勤続年数と年齢はほぼ同じであった。

勤続年数に応じた年功序列の世界

このように職階は、概ね勤続年数に応じた年功序列で上昇した。表2に、安政3年(1856)11月時点の大坂両替店の奉公人を示した。

『三井大坂両替店――銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(中公新書)より

これをみると、元〆(もとじめ)の福田万右衛門(ふくだまんえもん)と勘定名代の石島保右衛門(いしじまやすえもん)が重役として通勤し、経営の中枢を担ったこと、石井与三次郎(いしいよそじろう)・吹田四郎兵衛(すいたしろべえ)が支配として店を統括したことがわかる(原則、店表の奉公人は店内で苗字を名乗っていた)。

しかも役づきは、全員10歳前後から入店し、勤続してきた子飼いの奉公人であった。もちろん、平・初元もその例に漏れない。

一方、佐田半七(さだはんしち)は子飼いではなく、元服後の26歳で中途採用された中年者(ちゅうねんもの)だ。山尾周五郎(やまおしゅうごろう)は、40歳で中途採用され、天保3年(1832)から嘉永4年(1851)まで勤務し一時退店したが、すぐに再勤した。表2をみると、彼らは、営業部門とは異なる「書方」に属したことがわかる。

京都呉服店の場合、中年者は基本的に「書札方」に属し、書類・帳簿の作成と子供への教育を担当したというから、佐田と山尾も、これらを担当できる技能の持ち主として中途採用されたとみてよい。

吹田勘十郎(かんじゅうろう)については不明な点が多いが、臨時的な雇用として、大坂両替店が管理した家屋敷や新田を見回る役目を担ったと思われる。1850年代半ばには地震が各地で発生したから、この雇用は地震被害への対応であったかもしれない。

奉公人たちの食生活

大坂両替店の食生活についても確認しておく。宝暦2年(1752)2月、両替店の元〆たちが定めた掟書によると、朝夕の食事は一汁一菜であり、毎月1日と15日には必ず生魚が提供された。生魚はこの日だけに限定したわけではなく、魚が安価なときや暑寒が厳しいときには、生魚を提供すべきことが記されている。

毎月1日と15日は月例集会の日でもあり、この集会の場では飲酒が許されたようだ。このほか、正月の三が日と15日、大晦日、五節句の日には一汁二菜、神事や祭事などの日には一汁三菜、酒三献、吸い物などが提供された。

大坂両替店は半季ごとに「賄方入目目録(まかないかたいりめもくろく)」という帳面を作成しており、これには生活必需品の購入費や奉公人への給料が記録されている。

安政3年12月時点の「賄方入目目録」によると、白米一九石(こく)一斗(と)四升(しょう)(一石が約180.39リットルで、約3453リットルに相当)が購入されていた。1日に三合(ごう)九勺(しゃく)一才(さい)余(飯茶碗6.6杯)を食べる計算で、奉公人の数よりもやや多めの30人分が計上されている。

このほかにも、大豆、麹、醤油、酒、酢、塩、魚、青物もの(野菜)などが購入されており、店内では、大豆と麹から味噌が作られていたようだ。実際、前掲図13には「塩味噌部屋」がみえる。購入額は、白米、魚、青物の順に多かった。

1日に飯茶碗6.6杯というのは、江戸時代では平均的な摂取量である。しかし、醤油や味噌、塩が用いられ、新鮮な魚や青物が並ぶ食事は、当時としては悪くない水準の食生活であったはずだ。当然、これら生活費は大坂両替店が負担した。

※本稿は、『三井大坂両替店――銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(中公新書)の一部を再編集したものです

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