日本初の民間銀行創業までの道のりとは?三井大坂両替店が行った、信用調査と貸し倒れ予防策にみる成功の秘訣

日本初の民間銀行創業の発端となった「三井大坂両替店」。今回は萬代さんによる、三井大坂両替店の軌跡を辿るうえで、注目すべきポイントをご紹介します。(写真はイメージ。写真提供:写真AC)
日本初の民間銀行創業の発端となった「三井大坂両替店」。1691年に開設されたが、元は江戸幕府に委託された送金役だったという。そこから、民間相手の金貸しへと栄えるまで、どのような道のりだったのか。三井文庫研究員の萬代悠さんが、三井文庫の膨大な資料を読み解き、事業規模拡大までの道のりを著した『三井大坂両替店』(中公新書)。今回は萬代さんによる、三井大坂両替店の軌跡を辿るうえで、注目すべきポイントをご紹介します。

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【書影】三井はいかにして日本初の民間銀行創業に至ったのか『三井大坂両替店――銀行業の先駆け、その技術と挑戦』

三井大坂両替店の心得

19世紀のはじめ、三井大坂両替店(みついおおさかりょうがえだな)の重役たちが、質物(質に入れる物品)を担保に金銭を貸す際の心構えを誓約した掟書がある。以下の文言はその具体的内容で、奉公人(従業員、店員)がとるべき行動が記されている。

すべて〔顧客から〕質に取る品々については、売れ行きの良し悪し、価格の上下の事情を十分に調査し、〔顧客が返済できなくなったときのためにも〕担保を丈夫に取ることはもちろんのこと、顧客の家計や商売の様子を再三入念に調査し、〔重役との〕相談のうえ、金を貸しなさい。

さらに、次のように続く。

〔顧客が借入希望額に比べて〕高価な質物を担保として提供してきたとしても、先方(その顧客)が不確かな人柄であれば、取り組み(契約)をしてはいけません。とくに最初の調査が大切であるから、調査に行く店員は、前段のことをよくよく心得て、入念に調査をしなさい。

質物貸し証文(契約書)、ならびに質札(質物の預かり証)の書式、そのほかすべてについては、幕府が敷いた御法のとおり、間違いなきように作成しなさい。(「質方定書<しちかたさだめがき>」)

三井大坂両替店は、顧客から借入の申し込みを受けると、奉公人を派遣し、顧客が提供する担保の価値だけでなく、信用情報まで十分に調査して、最後に重役が厳しく審査した。仮に担保の価値は高くとも、顧客の評判が悪ければ金は貸さなかったのである。

もちろん、融資が決まっても気は抜けない。契約時に取り交わす証文類の書式や文言は、江戸幕府が敷いた法制度に準拠し正しく作成する必要があった。

最初は御為替御用が始まりだった

三井大坂両替店とは、現在の三井グループの「元祖」として知られる三井高利(たかとし)(1622~94)が、晩年の元禄4年(1691)から営業を開始した、今でいう総合金融機関である。

当初は高麗橋一丁目(現大阪市中央区)に店舗を構え、宝永3年(1706)頃に高麗橋三丁目に移転した。大坂両替店の開業は、高利の息子たちが幕府から御為替御用(おかわせごよう)を請け負ったことに端を発する。

各地に点在した幕府領のうち、西国の年貢米の多くが大坂に廻送されたことはよく知られている。

幕府は、概ね1680年代まで西国年貢米を大坂で換金し、随時、江戸に陸路(御伝馬<おてんま>)で送金していた。これは江戸での支出にあてるためであったが、幕府の公用陸上輸送は宿駅に多大な負担を与えた。

そこで幕府は、元禄4年以降、大坂に店舗を持つ江戸の両替屋たちに送金業務(御為替御用)を委託することにした。

三井は、その一員に抜擢され、すぐさま大坂に両替店を構えることになった。

実は、この御為替御用には特別な役得があった。幕府公金を大坂で預かり、江戸に上納するまでの90日間は、それを融資に転用できたのである。三井大坂両替店は、その莫大な幕府公金を元手に金貸しとして大きく成長した。

実際、三井は「両替店」を名乗りながらも両替業務にはほとんど従事せず、基本的には民間相手の金貸し業を主軸とした。まさに大型民間銀行の源流といえるだろう。

信用調査

『三井大坂両替店』では、とくに以下の二点に注目して、三井大坂両替店の技術と挑戦を描く。

ひとつは、信用調査である。

現代では、クレジットカードの発行を申請すると、カード会社は信用情報機関に顧客の信用情報を照会し、この情報をもとにカード発行の可否を判断する。

しかし、江戸時代ではそう簡単に信用情報が得られない。信用情報機関はおろか、現在のように、源泉徴収票などで顧客の年収を確かめることもできない。

自ら信用調査をしなければならなかったからこそ、三井大坂両替店のような金貸しは、冒頭で紹介した心構えで業務に臨んだ。

三井大坂両替店は、開業から100年ほどは順風満帆な経営だったが、18世紀末には不況や災害に見舞われ、危機が訪れる。業績挽回を目指す三井大坂両替店にとって融資先の新たな獲得は急務だった。

しかし、信用調査書と実際の成約数をみると、新規顧客が10名いたとしても、三井が新たな融資先としたのは、わずか1、2名に過ぎなかった。実に80%ほどの顧客が審査に落ちたのである。日本近世史研究において、この契約前の取捨選択と技術はほとんど解明されてこなかった。

書籍では、三井大坂両替店にかかわる多くの史料を読み解き、担保の評価や信用調査の方法に至るまで、まさに銀行業の基本業務が江戸時代ではどのようにおこなわれていたかを解明する。

契約後の貸し倒れ予防策

もうひとつは、江戸時代の法制度である。

人びとが安心して金の貸し借りをするためには、貸金(債務)を返済してもらう権利(債権)が保護されていなければならない。

日本の現行法では、貸主(債権者)、借主(債務者)の素性に関係なく、「法の下の平等」にもとづいて裁判がおこなわれ、和解で解決できない場合には、国家権力によって強制的に貸金を回収することも可能である。

このような法制度があってこそ、これまで馴染のなかった顧客に対しても金を貸すことができるわけだ。

ところが江戸時代においては、借主の身分や貸し借りの契約内容によって明確な「差別」が存在し、貸金を優先的に回収できる者、できない者が存在した。

貸主側である三井大坂両替店は、貸金を優先的に回収するために、幕府の法制度をうまく利用し、融資先が不誠実を働いた場合、貸金を優先的に回収できるよう工夫を施した。

これは、幕府権力によって回収可能性を高めようとする、契約後の貸し倒れ予防策といってよい。では、その工夫とはどのようなものであったか。法制史の観点から解明する。

※本稿は、『三井大坂両替店――銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(中公新書)の一部を再編集したものです

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