「2時間くらい号泣していました」“棋士のタマゴ”たちが切磋琢磨する中で「負けたから強くなれた」原点とは

 メジャーリーグの大谷翔平選手ではないが、将棋界にも「二刀流」で活躍する棋士がいる。麻雀プロでもある鈴木大介九段と井出隼平五段、公認会計士試験に合格した船江恒平七段、医学生の顔も持つ獺ヶ口笑保人四段……。

【画像】棋士コンビとしてM-1に出場した「もぐら兄弟」の服部慎一郎六段と冨田誠也五段(もぐら兄弟のXより)

 今回はM-1グランプリにチャレンジした冨田誠也五段に話を聞いた。服部慎一郎六段と「もぐら兄弟」というコンビを組んで漫才にチャレンジした真意はどこにあったのだろうか。棋士・冨田誠也の実情についても迫ってみたい。

 

「強い人と指したい」

――今回はM-1へのチャレンジについてだけでなく、冨田さんご自身についていろいろお聞きしていきたいと考えています。まず、将棋を覚えてから奨励会入りを目指したころまでについて教えてください。

冨田 将棋のルールは5歳の頃に父から教わりました。これはよく言っていることですが、父も初心者で、銀と金の動きを逆に教わっていましたね。私が一人っ子ということもあって、父との遊びの一環に将棋がありました。幼稚園の年長になってからはよく私が勝つようになって、しばらく将棋を指さなくなったんですけど、小学1年生の時にまたという感じです。父の同級生のおじさんが将棋教室を営んでいて、そこに通うようになってから本格的にのめり込みました。

――プロ棋士を目指したことの最初は何だったのでしょうか。

冨田 小学2年生の秋でしたか、森安正幸(七段)先生の教室で、プロ棋士の存在を知りました。もっとも、その頃はプロ棋士になりたいというよりも、強い人と指したいという気持ちが強く、それにはプロになるしかないと思ったんですね。当時は少年野球チームに入るのも考えていましたが、両親に野球をするか森安先生の将棋道場に通うかどちらか一つと言われて迷わず将棋道場を選びました。

――当時読んだ棋書で覚えているものはありますか。

冨田 石田先生(和雄九段)が書かれた、オレンジの厚い三間飛車の本(注※『復刻版 三間飛車』)は覚えていますね。誕生日プレゼントに買ってもらいました。昔は三間飛車が特に好きでしたが、それに限らず定跡書を読むのが好きでした。森安先生の道場では3級スタートでしたが、1つ昇級するごとに本をもらえることになっていたので、それもよく読んでいました。

第32回小学生名人戦には、強いメンバーがゴロゴロ…

――奨励会へは小林健二九段の門下として、小学6年生の2007年に6級で入会されました。

冨田 最初に通っていた森安道場には同世代の子がいなかったんです。平手で強い同世代と指したい思いがありました。関西将棋会館の道場にも行っていましたが、師匠の教室は会館の近所にあって通いやすかったんですね。4年生の頃に通い始めました。その時は兄弟子の池永さん(天志六段)がいて、しばらくしてから古森君(悠太五段)も入ってきました。

 師匠の教室に通い始めてからは色々な将棋大会で優勝できることが増え、自然に奨励会を目指す感じになりました。小学生の大会というと、やっぱり小学生名人戦が一番大きく、そこで優勝して奨励会へ入りたいという思いがありました。参加できる最後の年の07年では兵庫県大会の決勝で出口君(若武六段)と対戦し、勝って代表権を獲得しました。

――07年の第32回小学生名人戦の各県代表者をみると、後にプロになったメンバーには冨田さんの他に、増田康宏八段、近藤誠也七段、佐々木大地七段、本田奎六段、古森悠太五段、山本博志五段、黒田尭之五段、宮嶋健太四段の名前がありますね。

冨田 強いメンバーがゴロゴロいますよね。でも当時は出口君に勝ったことで「西日本大会も余裕だ」と思っていました。近藤君の名前は知っていて、決勝で「誠也」対決になったらすごいことになると浮かれていました。

――ですが、西日本大会の決勝で古森さんに敗れました。東西大会の決勝は、ベスト4入りがかかっており、またベスト4からはNHKの放映もあることで大きな勝負でした。

冨田 当時の下馬評では私の方が強いと言われていたんです。大勝負の1週間前に筋違い角を古森君と指してド快勝、これは味がいいと思って本番でも採用したらきっちり対策を練られて負けました。もう2時間くらい号泣していましたね。関西将棋会館の窓を開けて下に飛び降りようとしたくらいです。さすがに周りに止められましたけど。

 その時の審判長が師匠だったので、すぐ母にメールが来ました。「悔しさをバネに強くなってほしい」と。この年に奨励会試験を受けて、私が合格、古森君は不合格でした(古森五段の奨励会入会は翌08年)。師匠はこのことを引き合いにして「負けたから強くなれるんだよ」と子ども相手の指導でよく言っています。

泣いて家に帰り「もう将棋をやめる」

――冨田さんにとって、奨励会とはどのような場所でしたか。

冨田 入った時は強いと過信していましたが、5級へ上がるのに1年かかりました。その瞬間だけを切り取ると「今までで一番きついのでは」という思いを繰り返していましたね。例会で3連敗すると泣いて家に帰り「もう将棋をやめる」としょっちゅう親に言っていました。でも、今の視点で振り返ると級位者時代の苦しみなんて、全然大したことじゃないんです。三段までは楽しくやっていたと思います。

――冨田さんが三段に昇段されたのは17歳の時でした。まずまず速いペースだったのではと拝察します。

冨田 転機としては中学3年の時でしょうか。初段まで上がっていましたが、その時は高校へ行きたくないと思っていました。ですが母から「高校は卒業して」と言われて。結果的には高校へ行ってよかったと思います。初段では苦労しましたが、高校で職業インタビューというものがあり、そこで当時新四段の斎藤さん(慎太郎八段)に話を聞く機会があったんです。その話で将棋について深い視点で考えていると感銘を受けました。斎藤さんに話を聞いてからは割とすぐに二段、三段へと上がれました。また斎藤さんから研究会にも誘っていただき、当時のメンバーが折田さん(翔吾五段)と藤原さん(結樹さん。元奨励会三段で、のちにアマ竜王)で、メンバーは色々と変わりましたが、斎藤さんには今でも研究会でお世話になっています。

――後で改めてお聞きしますが、斎藤八段には昨年のABEMAトーナメントでドラフト選出されましたね。

冨田 最初に通っていた森安道場にも関係があるんですよ。斎藤さんは森安一門系列ですが(森安七段―畠山鎮八段―斎藤八段という師弟関係)、級位者の頃、当時の奨励会幹事だった畠山先生に「森安研へ行ってみたら」と声をかけてもらったんです。初めて参加した研究会で三段の斎藤さんに勝つことができました。斎藤さんにしても年下の級位者に負けるなんてめったになかったでしょうから、それもあって高校時代のインタビューをお願いしやすかったんです。色々とのつながりで運にも恵まれましたね。

大学進学への時期とも重なった、三段リーグ

――冨田さんが三段リーグに参加したのは13年前期の第53回リーグからでした。

冨田 年齢制限まで10年あるので、プロ入りは間違いないと思っていましたね。あわよくば高校生四段も考えていました。三段リーグの初日に戦ったのが増田さんと黒沢さん(怜生六段)です。増田さんには勝ちましたが、黒沢さんにはボロボロにされました。当時強いという評判があった三段2人に1勝1敗なら上がれるかなと楽観していました。結果、1期目は9勝9敗でしたが、最終戦で昇段の決まっていた石井さん(健太郎七段)に勝ったことも自信になりました。

 一つ気になったことに、千田さん(翔太八段)、斎藤さん、菅井さん(竜也八段)と、直近で関西から四段に上がった強いメンバーは皆、三段リーグで常に勝ち越していたということがありました。

――ちょうどその頃は大学進学への時期とも重なります。

冨田 高校にも行くつもりがなかった自分が大学へというのは驚きでしたね。高校で将棋以外の友人と話すのが楽しく気分転換になり、それが良い循環になっていました。大学進学は親とも相談して、行かずに後悔よりは行ったほうがということになりました。

――将棋部が強いことで知られる立命館大学へ進学されました。

冨田 もちろん私は奨励会員ですから大学大会には参加できませんけど、将棋部ではかなり指しましたね。先輩に中川慧梧さんや久保田貴洋さん(両名ともに有数のアマ強豪で、対プロ公式戦での勝利もある)がいて、強くしてもらいました。

――大学将棋の醍醐味の一つに、団体戦があるとされます。

冨田 一番大きいのが年末に行われる学生王座戦ですよね。サポーター役ですが、対局の記録を取るときに私なら一度に複数局をできるので、省エネに貢献しました(笑)。立命館伝統の円陣にも加わって、青春です。私が4回生の時には京都大学との無敗対決があり、2勝3敗から残り2人が勝ってひっくり返した時は私も含めて部員の半分くらいが泣いていました。皆の思いを背負って団体戦を指すのはうらやましく、一度はやってみたいと思っていました。

写真=石川啓次/文藝春秋

「実力もさることながら…」当時14歳だった藤井聡太が、三段リーグの対戦相手に与えた“衝撃”とは〉へ続く

(相崎 修司)

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