パリ五輪サッカー日本代表「守備重視は諦めた」大岩剛監督が“黒歴史”をバネに掴んだ「Z世代指導術」

途中交代の藤尾翔太(写真中央)は、J1でトップを走る町田ゼルビアでの勢いそのままに、パラグアイ戦では頭と右足で2得点の大活躍。見事、大岩監督の期待に応えて見せた

 

 パリ五輪サッカー男子日本代表が入るD組は南米予選1位のパラグアイ、アフリカ予選3位のマリ、欧州予選4位のイスラエルと難敵揃いのグループ。

 

 その意味でも、パラグアイに完勝したことは、56年ぶりのメダル獲得に向けて好スタートを切ったといえる。開会式に先駆けておこなわれた一戦は、日本が前半19分にMF三戸舜介(21)のゴールで先制。その後、パラグアイに退場者が出たことで日本が圧倒的に支配する。終わってみれば5-0の圧勝だった。

 

 

 この完勝劇は、もちろん選手の頑張りによるところが大きい。五輪という大舞台で、しかも初戦ということを加味すれば、プレッシャーに押し潰されそうになるはずだ。だが、若きイレブンは笑顔を見せ、まるで自然体。この日登録された18人中、とくに前線の選手の多くが海外でプレーしていることも、プレッシャーをはね除ける大きな要因になったようだ。

 

「守備の選手は経験不足だが、そこを逆手に取ってチーム作りをおこない、パラグアイ戦の采配も見事だった」と大岩剛監督(52)を褒め称えるのは、「サッカーダイジェスト」元編集長の六川亨氏だ。

 

「大岩監督はDF出身ですが、そういう人が監督になると、守備から入るサッカーをやりたがるものです。彼が鹿島の監督に就任したときもそうでした。ベースが守備なら大崩れしないし、代表でもそういうチーム作りをしたかったはず。

 

 ところがチーム立ち上げのころ、DFでJリーグの試合に出ている選手が圧倒的に少なかった。だからこそOA枠で呼びたかったのは、富安健洋(25)、板倉滉(27)、遠藤航(31)らの守備的な選手だったのだと思います。しかし、各クラブとの交渉段階で招集が難しいとわかった。

 

 そこで大岩監督は、守備重視のサッカーを志すことを諦めた。幸い、攻撃陣に海外でプレーする選手が多かったので、彼らを生かそうと。守備陣の少々のミスには目を瞑る。守って1点差で勝つのではなく、攻撃陣のタレント性を生かして、攻め勝つサッカーを目指したのだと思います」

 

 実際、パリ五輪に向けて最初に登録された18人中、GK2人を除くと、海外でプレーするのは5人で、すべてが前線の選手だった。

 

「守りから攻めへ。弱点を補うことに尽力するよりも、今の世代に合った長所を伸ばすチーム作りに考え方を変えたことがチーム力をアップさせ、それが見事にハマったのがパラグアイ戦でした」(同前)

 

 大岩監督といえば、現役時代は熱血漢としても知られていた。2000年の名古屋時代には、それが裏目に出てしまう。自身と同じ清水商OBの望月重良平野孝とともに、当時監督だったジョアン・カルロスとの確執が表面化。

 

 さらに、後輩選手への行き過ぎた指導に批判の声が出た。当時、パワハラという言葉は今ほど広まっていなかったが、「チームの和を乱した」として、突然解雇されたのだ。

 

「当時は大きな騒動に発展しました。選手が監督とやり合うなんてことは考えられなかった時代だし、3人も解雇されましたからね。ただ、本当にチームの和を乱す人物だったら、解雇されてすぐに磐田への移籍はなかったはず。サッカーへの熱さゆえということが認められたから実現したんです」(専門誌記者)

 

 その後鹿島に移籍し、2010年に引退すると同チームのコーチに就任。2017年シーズン途中から監督に就任した。

 

「Jリーグで監督として優勝はできませんでしたが、2017年からの3年間で2位、3位、3位と安定した成績を残しているうえ、2018年にはクラブ史上初のAFCチャンピオンズリーグで優勝を果たしています。

 

 このアジアでの優勝監督としての経験が、2021年からの各カテゴリーの日本代表監督就任への後押しとなりました。もし、パリ五輪でメダル獲得という結果を残せば、“ポスト森保”の一番手に躍り出ると思います」(六川氏)

 

 大岩監督は“黒歴史”をバネに、名将への道を歩もうとしている。

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