卓球・平野美宇、母が明かした「3度のどん底」東京五輪で「逃げたい」気持ちがいっさいなくなった【パリ五輪「メダル候補」たちの素顔】

平野美宇(写真・共同通信)

 

「美宇が初めて自分のやりたいことを主張したのが、『ママの卓球教室に入りたい』だったんです。2日連続で泣いてお願いしてきたので驚いてしまって。でも、初めての要求が私と夫が親しんできた卓球だったことは嬉しかったですね」

 

 こう話すのは平野美宇の母親で、山梨県にある「平野卓球センター」で子供たちを指導している平野真理子さんだ。

 

「『ママと一緒に練習して、みんなの迷惑にならないぐらい上手になったら入れてあげるよ』と条件つきでOKを出したら、すごく一生懸命頑張って。

 

 寂しくて一瞬の気の迷いかと思ったんですが、これは本気だなと思いました。練習の様子を見て、もうすぐ4歳になるころ、合格にし、3歳11カ月で大会デビューも果たしました。

 

 あとから美宇に聞いたら、『ママからチームに迷惑だから来ちゃダメって言われないように、早くみんなに追いつかなくちゃと思って、ものすごーく頑張ったのを覚えてる』と言っていました(笑)」

 

 

 美宇が全国的に有名になったのは、5歳のころ。泣きながら練習をする姿が、「愛ちゃん2世」としてテレビで放送されたことがきっかけだ。

 

「初めて取材依頼をいただいたときは、4歳の春。一生に一度の記念だね! とふわふわした気持ちだったのですが、その後、芋づる式に次々と取材依頼が舞い込んできて、びっくりしました。

 

 そのころの美宇の夢は、大好きなキティちゃんの店員『キティ屋さん』。オリンピックのことなんて全然考えていなかったのに、いつの間にか報道では『将来の夢はオリンピックで金メダル』になっていました。メディアに作られた虚像と実際の美宇とのギャップの大きさに悩みました。

 

 1回でも全国優勝すれば『愛ちゃん2世』としての責任を果たせると考え、『いちばん狙いやすい全日本バンビの部(小学2年生以下)で優勝して、メディアの取材を卒業する』という作戦を考えました」

 

 2007年の全日本卓球選手権大会バンビの部で、美宇は福原愛以来、史上2人目となる小学校1年生での優勝を飾った。その優勝インタビューで、美宇は想像もしてなかった行動に出る。

 

「カメラに向かって『将来の夢はオリンピックで金メダルです』と宣言したんです。それまでは、メディアの方に『夢はオリンピックですか』と誘導に近い質問をされても、絶対に首を縦に振らなかったんですよ。

 

 まだ小学1年生でしたが、発言の重さを美宇はわかって言ったと思うんです。それなのに『美宇の夢は違うでしょ?』と遮った私を制してまで、はっきりオリンピック宣言しましたから。

 

 私のメディア卒業作戦は失敗に終わりました。決意したときの美宇の意志の強さはよくわかっていますので、この姿を見て、私も覚悟をしなきゃいけないと思いました」

 

 ここから美宇の夢をかなえるために、指導方針を変える。今までの質と量では、世界では戦えない。当時の美宇は、高校生といい勝負をするぐらいの力をつけていた。「世界を目指すために必要なこと」を美宇に説明し、2人で実行していった。

 

 その後は山梨県の強豪校に出稽古に行き、真理子さんが作ったお弁当を高校の食堂で生徒たちと一緒に食べて、帰宅後、再び練習に励んだ。

 

 土曜、日曜は東京の東京富士大学へ遠征し、夏休みなどのまとまった休みは、大阪の強豪チーム・ミキハウスへ出稽古に向かった。世界を知っている中国人のコーチにも指導を頼んだ。

 

「私には美宇のほかに娘が2人いますし、卓球教室もあります。美宇には電車の乗り方を教えて、一人で通わせました。それでも美宇は弱音を吐くことは一度もありませんでした。

 

 出稽古先の選手のみなさまが幼い美宇をかわいがってくださったおかげで、寂しかったのは最初の一回だけ。一人きりの武者修行も楽しく過ごすことができました。

 

 この経験のおかげで、未知の世界に飛び込んだり、新しいことにチャレンジしたりすることに対して、自信がついたようです」

 

 美宇は、着々と成績を積み上げていった。2009年1月、8歳のとき、全日本選手権ジュニアの部で勝利し、福原愛の最年少勝利記録を2年更新。2011年、10歳のときには同大会一般シングルスの部で最年少勝利記録を更新。

 

 ダブルスでは伊藤美誠と最年少コンビで世界を席巻し、2014年には、「ITTFワールドツアー卓球女子ダブルス‐合計年齢(Youngest Winners of an ITTF World Tour Doubles title-combined age)」という記録で、ギネス世界記録にも認定された。

 

 そんな美宇が一度だけ、「卓球をやめたい」と語ったことがあるという。真理子さんが続ける。

 

「2016年から2017年にかけて、飛ぶ鳥を落とす勢いで成績を残した時期がありました。ワールドカップと全日本選手権を史上最年少優勝、アジア選手権ではリオ五輪金メダリストをはじめ、中国トップ3選手を倒して優勝、世界卓球は日本人48年振りとなる銅メダルを獲得。その成績からまわりの期待が大きくなりました。

 

 それはとても嬉しいことなんですが、美宇の心の成長がともなっていなかった。心の未熟さと成績が、あまりにもアンバランスで、次第に美宇の心が壊れていきました。

 

 初めて『卓球をやめたい』という言葉を口にしました。このときは私もつらくて、『私が卓球教室を始めなければ、美宇が卓球に出合わないで済んだのかな』と、いろいろなことを後悔しました。

 

 私は、美宇が自分自身の本当の心と向き合って、今後どう生きるのかを自分で決めてほしいと思いました。そのため、あえて卓球界に引きとめることはせず、『やめていいよ。山梨で新しい夢に向かって歩きだそう。どうするか決めたら連絡してね』と話しました。

 

 1週間ほど経ったころ、美宇から返事が。

 

『やっぱりオリンピックの夢をあきらめたくない。プロとして独立し、東京オリンピックを目指したい』と。そこで家族で話し合い、夫が美宇をサポートするため、東京へ行くことを決めました。

 

 プロとして新しい環境を作り、東京オリンピックを目指したのですが、選考レース中はとにかく美宇から悲壮感があふれていた。逃げたい、つらい、苦しくて仕方ない、そういった気持ちで戦っているのがひしひしと伝わってきて。そして、あと少しのところで3位の選手に抜かれ、シングルスの枠を掴むことはできませんでした」

 

 東京オリンピックはシングルスでは出場できなかったが、団体戦に出場。見事、銀メダルを獲得する。団体戦を戦う美宇は、本当に楽しそうに試合をしていたという。

 

「あまりに楽しそうなんで『有終の美を飾ってるな』なんて思って、これで美宇は引退するんじゃないかな? と勝手に思ってたんです。そしたら『パリの選考レースに出る』と言うので、『出るんかい!』って(笑)。

 

 東京オリンピックがあのコを生まれ変わらせてくれたのだと思います。『オリンピックの団体戦がものすごく楽しかった。やっぱりオリンピックシングルスの夢をあきらめたくない。これまでの自分はなぜだめだったのだろう』と真剣に考えたようです。そして『挫折の理由は、心の未熟さだ』と彼女自身が気がついたんです。

 

 美宇はこれまで何度も挫折してきました。1度めはリオオリンピックでリザーブだったこと。2度めは卓球をやめたいと思うまで、どん底を味わったこと。3度めは東京オリンピックのシングルス枠を取れなかったこと。

 

 こうしたいくつもの挫折を乗り越えて、人間的に成長しました。東京オリンピックの前と後では、まったく違う人間。今は逃げたい気持ちがいっさいありません。

 

 まわりの方に感謝! 逃げない! 言い訳しない! 自分の人生は自分でコントロールする!! すべてを乗り越え、こんな人間的に成長した美宇を見ることができて、やっぱり卓球に出合ってくれてよかったと思っています」

 

 母の日にはプレゼントが送られてきたという。

 

「焼き肉セットと寝具が送られてきて、『ママ、いつも応援ありがとう。これでゆっくり休んでください』というメッセージまでつけて(笑)。

 

 今はパリに向けて自分のことで精一杯なほどハードスケジュールのはずなのに、心にゆとりがあるんだなって。家族にも『応援ありがとう』というメッセージを忘れない今の美宇は、心の器が大きくなりました」

 

 パリオリンピックまであと1カ月。真理子さんは、最後に娘への思いをこう語った。

 

「私は人間の心をよくジグゾーパズルにたとえるんです。これまで美宇に『結果がすべてじゃない』『最後まで頑張ることが大事』などと話してきました。

 

 美宇の心がジグゾーパズルだとしたら、そのたびにひとつのピースがはまってきたと思う。美宇が経験したことでもピースがはまり、だんだん全体の絵がわかってくる。

 

 でも、最後のピースは、本人が自分自身で気づいてはめるもの。その最後のピースが、東京の団体戦後にカチッとはまったと思うんです。

 

 私は、パリ選考レースに挑んでくれた美宇を誇りに思うし、この2年間で心の成長が見られて、本当に幸せだと思います。美宇が精一杯やりきったというプレーができたら、結果に関係なく、清々しい気持ちで、笑顔で帰ってきてほしいなって思っています。

 

 もちろんメダルは美宇の夢ですから、美宇の首にメダルが光っていたらとても嬉しいですが、それは、オマケにすぎません。あきらめず挑戦を続けたこと、人として心が成長できたことを祝して、家族から金メダルをあげたいと思っています」

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