日本人初の「W杯開幕戦」主審・西村雄一が説くレフェリングの極意「サッカー審判は試合進行を“選手に委ねられた人”」「役割はジャッジメントではなくマネジメント」

選手に判定の理由を説明するのは主審の大事なコミュニケーションだ(時事通信フォト)

 スポーツ競技における審判の役割としてイメージするのは「公平でブレない判定」だろう。しかし、2014年のサッカーW杯ブラジル大会で日本人として初めて開幕戦の主審を務めた西村雄一氏は「100人の審判がいたら100通りの判定になります」と話す。どういうことか。その的確なレフェリングが世界で評価された西村氏に、『審判はつらいよ』の著者・鵜飼克郎氏が聞いた。(全7回の第4回。文中敬称略)

【写真2枚】サッカー主審の役割について語るJFA「プロフェッショナルレフェリー」の西村氏

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 一般的にどのスポーツでも審判に求められるのは、「競技ルールに則った公平なジャッジ」といえる。その意味でいえば「主観」を極力排除することが求められるだろう。裁判官によって判決や量刑に違いがあれば、法の裁きを受ける側が不満を抱き、やがては法律そのものが信用を失うことになりかねないように、審判によって判定が異なれば、選手は混乱してしまう。

 しかし、FIFA W杯南アフリカ大会(2010年)やブラジル大会(2014年)など数々の国際試合で笛を吹いてきた西村雄一は、「サッカーの審判はむしろ逆ではないでしょうか」と語る。

「100人の審判がいたら100通りの判定になります。真逆になることはないでしょうが、サッカーでは審判が違えば判定も違ってくることがあります」

 その理由は競技の成り立ちに関係しているという。

「元来、サッカーは審判がいないスポーツでした。“選手それぞれが自らルールを守ること”を前提としていたのです。日本ではサッカーのルールは『サッカー競技規則』と訳されていますが、英語版では『ロウズ・オブ・ザ・ゲーム』と表記されているので『競技の法則』という意味になります。『ルールズ・オブ・ザ・ゲーム』ではありません」

 ここでいう「ロウ(law)」は、「法律」というより「法則」のニュアンスである。日本のような成文法ではなく、サッカーの母国・イギリスの法体系である慣習法(法としての効果を持つ慣習)に近いともいえよう。

「なぜ『法則』なのかといえば、サッカーが“ジェントルマンスポーツ”であるからです。ルールで細かく反則を規定して選手の行動を制限するのではなく、選手がゲームの法則を理解したうえで、自らを律しながらゲームに参加していました。

 現実には、プレーのたびに選手が自分で判定しながらでは試合に集中できませんし、そもそもプレーの質が曖昧な部分が多いサッカーでは、各選手で判定基準が異なるケースもあります。そこで、プレーが法則に則っているかどうかの判断を誰かに委ねる。

 その『委ねる=レファー(refer)』が語源となり、両チームから試合進行をレファーされた者ということでレフェリーなのです。レフェリーの役割は、あくまで選手から試合進行を任されることであって、“選手にルールを守らせる”という性格ではないといえます」

役割はジャッジメントではなくマネジメント

 そうした由来があるがゆえにサッカーの試合では、審判の「主観」に委ねられる場面が少なくない。例えば、デジタル時計の表示ではアディショナルタイムが終了していても、どちらかのチームが得点に結びつきそうな状況であれば、そのプレーが途切れるまでは試合終了の笛を吹かないような“不文律”も、主審の裁量権として与えられている。

 0.1秒単位でプレー時間が決まっているアメリカンフットボールやバスケットボールとは対照的だ。アウトとセーフ、ストライクとボールが規定されている野球や、ボールのイン・アウトの明確さが求められるテニスなどのネットスポーツとも大きく異なる。

「本来、『ルール』には曖昧さがあってはいけないものですが、現実として『法則』で進むサッカーには曖昧さが多くあります。だからこそ私は、サッカーの審判の役割を“ジャッジメント”ではなく、“マネジメント”と考えて笛を吹いています。

 もちろん判定の正確さを軽んじているわけではなく、それ以上に選手が思う存分プレーできるような試合を実現するためのマネジメントが重要なのです。なかなか難しい表現ではあるのですが、私もいろいろな経験を重ね、“マネジメント”という言葉が腑に落ちるようになりました」

 実際、サッカーでは「白か黒か」ではなく「どちらともいえるプレー」が多い。同じような接触プレーであっても、ファウルと判定されるケースとファウルとならないケースがあるという。

「ルール上はファウルとなる接触でも笛を吹かないことは珍しくありません。どのような流れで、どういう意図で接触したのかを含めてファウルかどうかを判定しています。大怪我を招きかねないプレーや反スポーツマンシップ行為は別ですが、ファウルを受けた選手から“このままプレーを続けたい”“蹴られたけれど、この程度なら耐えられる”という意思を感じた場合、それを尊重することも“委ねられた者”の役割だからです。

 選手の意図に応じて、どこまで競い合えるのかを見極めながら、ギリギリのラインを模索する。プレーの質、選手の能力、ゲームの雰囲気によって、多くの人が納得するような判定を導くスポーツはサッカーだけかもしれません。

 スタジアムに来られているサポーターが期待していることは、多少の接触でも倒れずに一生懸命にプレーする選手の姿なのだと思います。その期待を裏切るように私たちがきっちりとファウルを取ればつまらないゲームになるでしょう。当然、レフェリングの“曖昧さ”が選手やサポーターの不満を招くこともあります。

 ただし先にお話ししたとおりサッカーは『法則』ですから、それを読み解いて8割の人が納得できる決定を導く。主審に委ねられた主観には、これらを実現するためのマネジメントが求められていると思います。ルールを厳格に適用するジャッジ能力を問われる競技の審判の方々には、不思議に思われるかもしれませんね」

(第5回に続く)

※『審判はつらいよ』(小学館新書)より一部抜粋・再構成

【プロフィール】
鵜飼克郎(うかい・よしろう)/1957年、兵庫県生まれ。『週刊ポスト』記者として、スポーツ、社会問題を中心に幅広く取材活動を重ね、特に野球界、角界の深奥に斬り込んだ数々のスクープで話題を集めた。主な著書に金田正一長嶋茂雄王貞治ら名選手 人のインタビュー集『巨人V9 50年目の真実』(小学館)、『貴の乱』、『貴乃花「角界追放劇」の全真相』(いずれも宝島社、共著)などがある。サッカーをはじめプロ野球、柔道、大相撲など8競技のベテラン審判員の証言を集めた新刊『審判はつらいよ』(小学館新書)が好評発売中。

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