30歳で異例の外野手転向。“ポスト古田”と呼ばれた米野智人が歩んだ数奇な野球人生

ヤクルトスワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)、埼玉西武ライオンズ、北海道日本ハムファイターズの3球団で17年間プレーした米野智人。

古田敦也選手兼任監督に代わる正捕手候補として期待されるも、イップスに苦しめられたヤクルト時代。西武へのトレード、そして30歳で決断した外野コンバート。日本ハムでの捕手兼二軍バッテリーコーチ補佐という役割など、さまざまな土壇場を経て、17年間の現役生活を全うした米野の野球人生を振り返ってもらった。

▲俺のクランチ 第57回-米野智人-

プロ野球選手になれると思っていたドラフトの日

17年間の現役生活を過ごした米野が初めて野球と出会ったのは、彼が小学校3年生のときだった。

「野球好きの父と兄の影響です。兄と同じ少年野球チームに入ることになったんですけど、最初は投手か三塁手をやるつもりだったのに、監督から“肩が強いから捕手をやってほしい”と言われて、しかたなく最初はキャッチャーマスクを被っていました」

だが、1992年の日本シリーズで捕手に対する印象が大きく変わることになる。西武とヤクルトの対戦で、“ある選手たち”に心を動かされた。

「日本シリーズでプレーする古田敦也(ヤクルト)さんと伊東勤(西武)さんの姿をテレビで見ていると、だんだん捕手のカッコよさに気づかされて。“捕手を頑張ってみよう”という気持ちが湧き上がってきて、野球が楽しくなったことを覚えています」

日本シリーズでチームを牽引する古田選手のプレースタイルに感銘を受けたという米野は、その後も捕手として実力を磨き、北海道にある強豪の北照高校に進学した。

「周囲のレベルが高かったので、プロ野球選手になる難しさは薄々感じていましたし、その夢を気軽に口に出せるような環境ではなかったです」

目の前にある厳しい競争に勝つために必死な思いをしていた米野が、現実的にプロの世界を意識するようになったのは、高校2年生のことだった。

「プロ注目候補と言われていた先輩投手の視察に訪れたスカウトが、自分のことを話していることを噂に聞いて。そこで初めて“もしかしたらプロに行けるのかもしれない…!”と思うようになりました」

高校2年生の春にセンバツ高校野球に出場し、自慢の強肩を披露した米野の周囲には、調査に訪れるスカウトも徐々に増え、1999年11月、ついに運命の日を迎えた。

「当時は絶対に言えませんでしたけど、“おそらくプロ野球選手にはなれる。自分は何位で指名してもらえるんだろう?”と考えながら、ドラフト会議の日を過ごしていました」

米野の名前が呼ばれたのは、ドラフト会議の3巡目。指名したのは、かつて米野少年が憧れた古田敦也選手のいるヤクルトスワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)だった。

米野智人を奮い立たせた古田敦也の言葉

「古田さんがいるヤクルトからの指名に、運命めいたものを感じました」

幼い頃から思い描いたプロ野球選手になる夢を叶えた米野だったが、程なくして厳しい現実も思い知らされることになる。

「当時のチームは、池山(隆寛)さんや古田(敦也)さんなどのそうそうたるメンバーが揃っていて、成熟したチームでした。僕が子どもの頃に憧れていた選手たちのプレーを見ると、自分と凄まじいレベルの差があって、“この世界で自分はやっていけるのだろうか…?”という不安しかありませんでした」

だが、その不安をよそに、2年目の2001年9月に初の一軍昇格を果たすと、7日の巨人戦でプロ初出場。だが、チームの事情により2軍に降格し、この年のセ・リーグ優勝と日本一の瞬間に居合わせることはできず、悔しさも残る1年となった。

続く2002年には、正捕手の古田が故障した影響により、米野は22試合に起用され、初安打や初本塁打を記録。

8月19日の阪神戦ではサヨナラヒットを放って初のお立ち台に上がるなど、「ようやくプロ野球選手になれたという手応えと自信を手にした1年」を過ごした。

しかしシーズン終盤には、打ち取ったはずのファールフライを米野が落球し、その直後、翌年メジャーリーグに移籍する松井秀喜選手に50号本塁打を献上する、という苦い思いも味わった(10月10日・東京ドーム対巨人戦)。

直球勝負を挑んだ五十嵐亮太投手と米野に、試合後の松井選手は感謝の思いを語っていたが……。

「松井さんに本塁打を打たれたときは“やっちまった……”と思いました。まずはベンチに戻って五十嵐さんに謝ると、古田さんが僕のことを呼びました。初めてのことだったので、少しビックリしたことを覚えています。

古田さんからは“あれぐらいのフライはしっかり捕らないと、ピッチャーに申し訳ない。プロの世界にはそんなに甘くないぞ!”と叱られて……。そのときはめちゃめちゃ落ち込みましたけど、いま振り返ってみると、古田さんはチームの数年後を見据えて、僕に期待してくれていたんじゃないかなと思うんです」

▲古田さんから呼び出されたエピソードを教えてくれた

そして、この日は巨人の本拠地最終戦で、試合後には両チームの選手がベンチの前に整列し、巨人のリーグ優勝を報告するセレモニーも行われた。

「僕が落ち込みながらも整列していると、その横に古田さんがやって来て“ジャイアンツに勝たないと優勝できないからな”と言われました。いろいろと悔しい思いをした試合でしたけど、古田さんの言葉にジーンと込み上げてくるものがあって、その期待に応えないといけないなと感じました」

野球を続けていくのは無理だろうと悩む日々

その4年後の2006年には、古田が選手兼任監督に就任。正捕手育成が急務となっていたチーム事情もあり、「ポスト古田」の一番手と目され期待された米野は、出場機会を大幅に増やした。

「僕にとっては、レギュラー獲得に向けた大チャンスの年でした。たくさん失敗しましたけど、毎試合スタメンで起用してもらって、とにかく充実していたことを覚えています」

試合出場を重ねるなかで、「古田さんと違って、僕のリードに首を横に振る投手も多かったですし、長年、正捕手を務めた古田さんの偉大さを感じる場面はありました」と話す。だが、5月25日にはリック・ガトームソンをノーヒットノーラン(神宮・対楽天戦)に導くなど投手陣を牽引し、そのまま順調にスター街道を歩むかのように思われたが……。

レギュラー捕手として出場を続けた2006年の夏、突如として異変は訪れた。

「あるとき、投手に返球する際にボールが散らばることに気づいて……。“おかしいな”とは思ったんですけど、しばらくそのままにしていました」

その異変の正体がイップスだと気づいたのは、シーズン終盤、ナゴヤドーム(当時)での中日戦のことだった。

「試合の終盤に盗塁を試みたランナーを刺そうとしたら、ボールが上に逸れてしまって。延長戦に突入したあとも同じようなボールを投げてしまったときに、その症状に気がつきました」

この試合を機に、米野の出番は徐々に減少。掴みかけたはずの正捕手の座を、他の選手に譲り渡すこととなる。

「投げることへの不安はありましたけど、それでもまだ“俺のほうがやれる”という気持ちは残っていたんです」

翌年も、イップスの治療に励みながらレギュラー再奪取に向けて奮闘していたが、2008年には2軍の試合中に右手親指を脱臼骨折。米野の土壇場は続く。

「この頃から精神的に追い詰められて、試合に出るのが怖くなってしまって……。眠りが浅くてすぐに目覚めてしまったり、 朝起きたら憂鬱な気分で、“行きたくないな”と思いながら球場に出かけるような日々を過ごしていました。

もう捕手としてプレーするのは無理かもしれない……。肩の強さを評価されてプロの世界に入ったのに、それができないのでならば、野球を続けていくのは無理だろうと思ってました。自分としては、もう野球選手を辞めるつもりでいたんです」

2軍で過ごしていた2010年5月、米野は思い切って自身の気持ちを二軍監督に告げた。そこからおよそ1か月後、米野に西武へのトレードが告げられる。

「奇跡のグランドスラム」を放った日

鬱々とした日々を過ごしていた米野は、2010年のシーズン途中に西武へのトレードが決定。本来ならば、新天地での活躍に胸を躍らせるような状況だが、「もう捕手をやめるつもりだった」という米野は、さらに精神的に追い込まれ、ツラい日々を過ごすことになった。

2010年は一度も一軍に上がることなくシーズンを終えると、2011年もわずか3試合の出場に終わった。

「即戦力として呼ばれているはずなのに、まったく戦力になれていない自分の不甲斐なさを感じていました。“このまま現役を続けてもチームの力になれないだろう”と思ったので、自分から引退を切り出そうとしたんですけど、一方では引退を決めきれない自分もいました。いろいろと考えた結果、ひとまずはシーズン終了後に言い渡される戦力外通告を待ってみることにしたんです」

だが、何事もなかったかのように秋季キャンプが始まり、戦力外を通告されない状況に戸惑う日々を過ごしていた米野だったが、紅白戦で放ったホームランによって突如として転機が訪れる。

「僕の打撃を見た光山英和バッテリーコーチと渡辺久信監督(いずれも当時)が、“捕手を続けるよりも、手薄な外野手として勝負した方がチャンスがあるかもしれない”と言ってくださって、思い切って挑戦してみることにしたんです」

野球人生において「大きなターニングポイントだった」というコンバートを決めた米野は、この年の開幕一軍の切符を掴む。4月26日のソフトバンク戦では、9回2死満塁の場面で代打として起用され、当時、絶対的な守護神だったブライアン・ファルケンボーグ投手から逆転満塁弾を放った。

「数か月前には野球を辞めたくて仕方なかったはずなのに、このような活躍ができた。これでようやく西武の一員になれた気がしましたし、あまり打撃が得意ではなかった僕に、コンバートを提案してくださった首脳陣の皆さんには感謝したいです」

▲チームに関わる人々への感謝を忘れないことも大事です

「奇跡のグランドスラム」として今も語り継がれる名シーンには、チームに関わる人々のさまざまな思いが詰め込まれていた。それから数年が経ち、2試合の出場に終わった2015年の秋、米野は6シーズンを過ごした埼玉西武ライオンズから戦力外を言い渡される。

「(戦力外通告を)覚悟していましたが、僕が西武にやってきた頃と違って、まだまだ現役を続けたいと思いましたし、やれる自信もあった。もしこのまま引退したら、あとで後悔するだろうなと思ったんです」

そんなとき、北海道日本ハムファイターズからオファーをもらった。役割は選手兼任2軍バッテリーコーチ補佐。このオファーに応え、現役続行を決定。栗山英樹監督(当時)の発案で登録を外野手から再び捕手に戻し、新天地で再スタートを切ることになった。

「現役生活の最後に、一度は諦めた捕手に再挑戦してみたいと思ったんです。もし、自分で思うような手応えが得られなかったら、きっぱり引退しようと決めていました」

この年の日本ハムは、7月に球団タイ記録の15連勝を達成。ソフトバンクとのデッドヒートを制して4年ぶりのリーグ優勝と10年ぶりの日本一を成し遂げた。そんななかで、古巣の西武戦1試合のみの出場に終わった米野は、春頃には引退を決めていたという。

「球団は来季も契約してくださるとのことだったのですごく迷いましたけど、選手としては“そろそろ引き際なのかな……”と思って。中途半端な気持ちで続けるべきではないと思い、8月頃に正直な思いを球団に伝えました」

米野の意向を了承した球団は、この年の2016年10月に米野の現役引退を発表。いくつもの土壇場を乗り越え、ポジションを変えても野球を続けた米野は、日本一の達成に沸くチームとともに、17年間の選手生活に別れを告げた。

引退を考えているアスリートに伝えたいこと

2016年にプロ野球選手生活に別れを告げた米野は、2017年に飲食業でセカンドキャリアを歩み始めた。開始早々に試練に直面することになる。

「最初は食に興味があって、飲食店のオーナー業をやるつもりだったんですけど、当初お願いしていた料理人の方が、厨房に立てないことになってしまって……。店の家賃も払っているのに、料理を作れる人が誰もいない。

それまで簡単な自炊くらいしかやったことがない僕が、厨房に立たないと店を開けられないような状況に追い込まれてしまったんです。困り果てていると、2歳年上で料理好きの兄が北海道から駆けつけてきてくれて。いろいろ教えてもらったことが今も役に立っています。

開店当初は「いらっしゃいませ」を言うことすらもぎこちなくて……と苦笑いする米野。夢なんか描けないくらい、目の前のことに必死な状況に追い込まれたことが、今となっては良かったような気がする。そう当時を振り返る。

「僕の場合は、幸運にも幼い頃からの夢だったプロ野球選手になれましたけど、夢を叶えたあとにもツラいことがたくさんあって、夢心地な生活が続くわけではありませんでした。もちろん、夢を追うことも大切ですけど、夢がなかったとしても、目の前にあることを一生懸命に続けていけば、自分自身の成長が感じられますし、やりがいにもつながってくる。

遠い未来の展望を持つことばかりが、目標に近づく方法ではないと思うんです。例えば、お客様に店で出したカレーの味を褒めてもらえたとか、自然な笑顔で接客できるようになっているとか、そういう些細なところにも、道を切り拓くさまざまなヒントが隠されているんじゃないかと思います」

昨今では多様な選択肢も増えつつあるが、アスリートの引退後のキャリア構築については、さまざまな議論が交わされてきた。自身の選手としてのキャリアに見切りをつけ、見ず知らずの世界に飛び込むのは勇気がいることのようにも思える。

現役を引退して7年が経過し、最近ではセカンドキャリアの形成に関する講演もしている米野が感じるのは、「やってみることの大切さ」だと言う。

「どんな仕事であっても、自分でできることが増えていくにつれて、成長していく喜びを感じられると思うんです。引退を考えているアスリートに伝えたいのは、仕事を選びすぎないこと。

とりあえず打席に立って、バットを振れば見えてくるものもありますし、周囲への感謝の気持ちも芽生えてくる。スポーツをしていた頃と同じように、まずは目の前にある仕事をやってみて、自分のできる仕事が増えていくうれしさや、喜びを感じることが大切だと思います」

▲店で見かけたときには気軽に話しかけてください

選手としての経験がセカンドキャリアでも役に立つ

米野は、かつて在籍した埼玉西武ライオンズの本拠地のベルーナドームに、ヴィーガン料理の専門店「BACKYARD BUTCHERS」を2021年に開業。今年春にはポテトやチュロスを扱う「& Butchers」を新たにオープンさせた。

また、池袋の商業施設Waccaで、実父が札幌市で経営する喫茶店で自家焙煎したコーヒー豆を使った「WACCA COFFEE CLUB」の経営にも携わるなど、スポーツと食を軸にした事業を展開し、充実したキャリアを歩んでいる。

最近では、ベルーナドームの店舗運営をサポートしてくれる新規スタッフの採用にも力を入れており、米野自らが面接を担当することもあるという。

「一番重視しているのは、前向きで一生懸命、頑張ってくれそうな人です。最初のうちは慣れないところもあると思いますが、明るく楽しい雰囲気を作ってくれる人と一緒に仕事をしたい、そう思って面接させていただいています。でも、最近はどの業種も人手不足に悩まされていて……。僕自身もさまざまな解決策を考えているところです」

現在は経営者として辣腕を振るう米野だが、捕手というポジションはマネジメントや洞察力、人に対する姿勢といったビジネスとの関連要素も多い。

「選手時代には我慢をしなければならない場面もありましたし、“どうすればピッチャーに自分の思いをうまく伝えられるだろう…?”と悩むこともありました。でも、プロの世界で捕手としてプレーして培った経験によって、さまざまなことを学びましたし、人間としても成長させてもらえました。これからの人生でも、いろいろなことがあると思いますが、捕手をやってきた経験がきっと役に立ってくると思うんです」

さまざまな土壇場を乗り越え、自分のポジションを見出した米野智人のセカンドキャリアに、これからも注目していきたい。

(取材:白鳥 純一)


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