「5年生存率が5%下がる」秋野暢子、食道がんステージ3の決断。その時、長女とマネージャー姪の反応は?

クリーミーなブロンドのショートボブ、カラフルな花柄のブラウスに、タイトな白のロングスカート姿が、秋野暢子(67)のスラリとした体躯をいっそう際立たせる。カメラの前に立ち上がってキメのポーズを取ると、メークやスタイリストさんから思わず漏れた「キレイ」という言葉に、こぶしを作って「ヨシ!」とガッツポーズ。

「プロフィール上は170cmなんですけど、このあいだ測定したら168cmに縮んでいました。書きかえないといけませんね(笑)」

テレビで見るとおり、親しみやすい笑顔と対応で、その場が和む。こうした空気を作り上げられるのも、女優、タレントとしての経験が豊富だからだろう。

「現在は、すこぶる元気ですね。検査結果もまったく問題がなくて、日常生活には何の制限もありません。終活のために衣装部屋の衣装を半分ほど処分したんですが、空いたスペースにトレーニング機材を導入して、毎日、運動しているくらいなんですよ」

’21年12月に体の異変を感じ、’22年6月にステージ3の進行性食道がんが発覚した秋野は、化学療法を乗り越え寛解したものの、再発の可能性を秘めながら日々の生活を送っている。だが、そこに悲愴感はない。

「再発や治療のことばかり考えていても、人生がもったいないですからね。あと何年あるのかわかりませんが、自分らしく、楽しく生きていきたいんですよ」

プラス思考でいられるのは、秋野の母親と、11年に及ぶ不妊治療を終了後に期せずして誕生した娘、そして9月に恵まれた初孫など、秋野家4代にわたる命のバトンが影響している。

「孫は女の子です。まだ生まれたばかりでクネクネした小動物みたいなんだけど、一生懸命、ミルクを飲む姿には、生きる力強さがありますよね」

がんになり、死を垣間見たからこそ、何げない日常の日々が輝いて見えるのだと、秋野はがん発覚当時を振り返る──。

■モノをのみ込むときに違和感が……。梅核気との診断でスープばかり作った

体調に異変があらわれたのは、’21年12月ごろ。だが、自分が大病するなど考えていなかった。

「当時は体力作りや健康的な食生活を心がけていて、テレビや書籍などでも健康について発信していましたから。だから、最初の異変となったモノをのみ込むときの違和感も“何かできものができているのかな”“しばらくすれば治る”程度に思っていたんです」

だが、年が明けても違和感はなくならず、クリニックで検査することに。ただ、異変があらわれる直前に、毎年受けている人間ドックで内視鏡を含め、徹底的に検査しており、結果も「異常なし」だったため、改めて内視鏡検査をすることもしなかった。

「結果的には梅核気といって、梅干しの種があるような“感覚”になるという病気だと診断されました。自律神経の乱れもあるのかと思って、針や整体など東洋医学の施術を受けたりしたんです」

しかし、5カ月ほど経過しても症状は悪化の一途で、固形物をのみ込むことも困難になった。

「当時のブログを見返すと、スープばかり作っています。水分しか喉を通らないような状況だったんですね」

6月に入り、食事もままならなくなり、ようやく内視鏡検査をしたのだった。

「検査後、主治医は紹介状を手に『大きな病院で精密検査を受けてください』としか言わないので、きっとよくない検査結果だと予想できました」

紹介先の病院で診断結果を聞く際、内視鏡の画像を映し出すモニターが目に入った。

「食道を塞ぐほどの大きな異物があったので『これ、がんですね?』と聞くと、先生も『そうですね』と正直に答えてくださったんです。頭頸部(脳と目を除く首から上すべて)にできたステージ3の食道がんで、4cmほどの大きいものも含め、5つもの重複がんが認められました」

テレビドラマでは、医師の告知を受けると頭が真っ白になり、どうやって家に帰ったのか思い出せなくなる様子が描かれたりするものだが、秋野は冷静に受け止められたという。

「無症状でたまたま見つかったなら別の感覚だったかもしれませんが、何しろ苦しんでいた喉の詰まりの原因がわかったことで、気持ちのうえで納得できたんでしょう」

翌日、さらにがん専門の病院に場所を移し、一人娘の夏子さん(30)と、当時マネージャーを務めていた姪の高岡さち子さんの同席のもと、治療方針を決めることに。治療法は、外科手術と、抗がん剤や放射線治療による化学療法の2つに大別されるという。手術だと直接がんを切除するので、化学療法に比べ予後はいいとされる。

「とはいえ、食道がんの手術は難しく、10時間ほどかかるもの。さらに私のがんは声帯の近くにできていたため、声も失うことになるとのことでした」

それは、女優、タレントの仕事を捨てることになる。それだけではない。

「食道を摘出して、胃をのばして喉とつなぐことになります。胃に食道の代わりはできないので、うまくのみ込めなくなったり、食べることで血糖値が乱高下する“ダンピング”という症状に見舞われることもあるそうです」

また喉に穴が開いた状態になるため、お風呂に首までつかれないなど、QOL(生活の質)は下がることに。

一方の抗がん剤と放射線治療を組み合わせた化学療法を選択すると、声帯や食道を温存できるが、手術に比べ予後が悪くなる。

「私が闘うステージ3の食道がんは、5年生存率が30%ほどだそうですが、化学療法を選んだ場合、手術と比べて5%ほど生存率が下がるといいます。さらに、抗がん剤は人によっては効かないケースもあるみたいで……」

その場合、化学療法後に手術をすることになるが、化学療法の影響によって、合併症リスクが高まるという。

「手術と化学療法のメリット、デメリットを考えて、私は、化学療法を選びました。

食べること、しゃべることを失い生きるより、たとえ半分しか生きられなくても、人生の楽しみを失いたくなかったんです」

秋野は一緒に説明を聞いていた娘と姪に「どう思う?」と聞いてみた。泣きながら手術を勧めた高岡さんは当時をこう振り返る。

「秋野は仕事への影響を考えていました。たしかにマネージャーの立場としては化学療法を選びますが、私は姪として説明を聞いていたので……。娘は独立しているし、秋野も仕事優先でなくてもいい年齢ですので、手術を選んで長く生きてほしかったんです」

しかし娘の夏子さんは「私には決められない。ママの人生だし、ママが決めたことを応援する」と答えた。秋野が続ける。

「それが私にとっては心強かったんです。泣いている姪には『人間、誰でもいずれは死ぬんだから、自分らしく生きるほうを選びたい。手術しない決断を理解してほしい』と伝えました」

この決断ができたのは、これまでに培われた秋野の死生観が関係している。

■11年間の不妊治療、子供をあきらめた後に妊娠。出産1年半後に母が急逝

秋野暢子は’57年1月18日、大阪府で生まれた。父は船場の呉服店の経営者で、裕福な家庭だった。

「9歳上の兄には、お手伝いさんが2人もついていたと聞きますが、私が物心ついたころには、父は借金の保証人になって貧乏生活に。糊口をしのぐために、母は着物のお針の内職をしていました。針が危ないからと、母がそばに寄らせてくれなかった記憶があります」

父は債権者から逃れるため、地方の知人に匿われており、母が矢面に立ち家族を守った。

「借金取りがくれば『金返せ!』って怒鳴られますから、子供の私にとっては恐怖そのもの。男の人が怖くなって、吃音になってしまったんです。小学校で出席を取るときも、先生が男性だと『はい』と言えないほどでした」

そんな状況の秋野を見た小5のときの担任が、演劇会でおどけた役を秋野に与えた。

「えんぴつの国を舞台にしたお芝居で、HBやBが出てくるんですが、私はFの役で『Fざんす』と登場。すると、生徒ばかりでなく保護者や先生方も大笑いして、体に電流が走ったんです。担任から『あなたは自己表現できないけれど、他者になると表現できるから、演劇が盛んな学校に』と勧められて、中学受験しました。進学先が仏教系の学校だったため“死には抗えない”という教えを刷り込まれたことも、がん治療をめぐる考え方の礎になっているのかもしれません」

演劇部のコンクールに出場すると、テレビ局や劇団関係者の目に留まり、ローカルテレビのドラマなどの役をもらえるようになった。

そして18歳のとき、NHK連続テレビ小説『おはようさん』(’75年)のヒロインに抜擢。その後も山口百恵主演の『赤い運命』(’76年)など話題作に出演し、着実に女優としてステップアップしていった。’83年の結婚後(’01年に離婚)には命と向き合った。

「どうしても子供が欲しいという思いがあって、11年間も不妊治療を続けました。その間、流産を2回、子宮外妊娠を1回経験しました。子宮外妊娠のときは左の卵管を摘出しましたので、もう無理だろうと子供をあきらめたんです」

不妊治療をやめて、夫婦2人だけの生活を想定して家のリフォームを始めたところで、妊娠が判明した。命というのは人智を超え、望んでも恵まれないこともあるし、思いがけないタイミングで授かることもあると痛感したのだった。念願の子を授かった1年半後には、母の死に直面した。

「母が76歳のときに病気を患い、医師から『延命治療をするかどうか、1時間以内に決めてください』という状況に……」

母は60歳のときに日本尊厳死協会に入会し、延命治療を拒否する旨を秋野に伝えていた。

「迷った末に、母の希望をかなえる決断をしました。でも、どうしても“自分が母の寿命を決めてよかったのだろうか”“延命したら、後で息を吹き返し元気で過ごせたのかも”という後悔の気持ちが、何年も心の中に残ったんです」

転機は、秋野自身が還暦を迎えたタイミングだった。

「自分自身の死を考えたとき、私は離婚しているし“一人娘に迷惑をかけたくない”という思いが生じたんです。そのとき“きっと母も同じ気持ちでいたんだろう”とに落ちて、あのときの決断を受け入れることができたんです」

秋野は母と同じように日本尊厳死協会に入り、延命治療しない方針だと夏子さんにも伝えた。

「娘は“ふーん”という感じで、リアルに感じられないようでしたけどね(笑)」

だが、こうした意思表示に触れたことで、秋野のがんの治療法をめぐって“たとえ命が短くなっても、自分らしく生きたい”という決断を、夏子さんは尊重することができたのだろう。

(取材・文:小野建史)

【後編】秋野暢子「小学校卒業式を見るまでは!」食道がん“鬼退治”の新たな仲間は初孫へ続く

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