「いっそ飛び降りてしまおう」ひろみちお兄さんが独占告白…脊髄梗塞から奇跡の回復までにあった「絶望の闘病生活」
「入院中は、もう僕はダメなんだ、治らないんだ、一生車いす生活なんだ……と絶望して、一時は抜け殻のような状態でした」
こう話すのは“ひろみちお兄さん”こと佐藤弘道(56)だ。
今年6月に「脊髄梗塞」のため緊急入院したことを公表した佐藤。《下半身麻痺となり歩けなくなってしまいました》と明かし、芸能活動を休止していた。それから約2カ月後の8月20日、所属事務所を通じ、退院を報告した。
現在もリハビリは続いており、《退院はしましたが下半身の麻痺やしびれが残り、失ってしまった機能もある為、一般の方のような歩き方は出来ません》とつづっている。
脊髄梗塞は、脳梗塞や心筋梗塞と同様に、脊髄につながる血管が血栓などの理由で詰まってしまう疾患。多くは背中に激痛が走ることから始まり、神経が機能しなくなると、歩行不能となるケースもある。
発症頻度は脳梗塞の1~2%ほどと珍しい疾患で、有効な治療法は確立されていないのが現状だ。
’93年から12年間『おかあさんといっしょ』(NHK Eテレ)の第10代体操のお兄さんを務めた後、タレントとして活躍してきた佐藤が突如直面することになった病魔との闘い。退院報告の翌日、入院中の生活やリハビリの様子、そして仕事復帰へ向けた思いを佐藤が本誌に語ってくれた。
取材当日、’94年に結婚した妻・久美子さん(55)、佐藤が代表を務める体操クラブのスタッフでもある長男・文哉さん(27)と連れ立って所属事務所に姿を見せた彼は、グレーのジャケットに白のVネックシャツという“ひろみちお兄さん”スタイル。体調が急変した際の緊迫した場面からゆっくりと語り始めた。
■妻が感じていた半年前からの異変
「倒れた日(6月2日)は地方で研修会の仕事があったのですが、その日の朝に左足が痺れてリビングで転倒してしまったんです。そのときは僕も妻も特に気にすることなく2人で家を出たのですが、空港に着いたころから急に具合が悪くなって。
とにかく気持ち悪いのと、背中から腰にかけて激痛が襲ってきました。妻の手を借りて何とか飛行機に乗ったものの、腰が痛くて動けなくなってしまいました。
妻もただごとではないと感じ、着陸後すぐ病院に行けるよう手配してくれたのですが、立ち上がろうとしても、すでに下半身が麻痺していて足に感覚がないんです。車で搬送してもらい診察を受けると『これは骨の異常ではないね』と。宿直の先生が脳神経の専門だったおかげで『脊髄梗塞かもしれない』と、迅速な診断をしてもらえたのは不幸中の幸いでした」
50代半ばにして“お兄さん”と呼ばれる佐藤だが、テレビでの活発なイメージそのままに、これまで大病をしたことはなかった。
しかし、妻の久美子さんは半年ほど前から夫の異変を感じ取っていた。久美子さんが言う。
「眠っているときに、大きないびきをかくようになったんです。以前はそんなことはなかったのですが。地方での仕事の際、パパと一緒の部屋に泊まった長男も『すごいいびきだった』と言っていたことがありました」
佐藤自身も、発症の2日前に異変があったと振り返る。
「地方のレギュラー番組で体操コーナーの収録があり、筋トレの実演をしたのですが、終了後になんだか背中が痛くて、妻に湿布を貼ってもらったんです。経験したことのない痛み方だなとは思いましたが、翌朝には落ち着いたので、いつもどおりに仕事をしました。その翌日になって発症したんです。体調がどんどん悪くなり、まさか足が動かなくなるとは思わなかったので、ただ恐怖しかありませんでした」
「脊髄梗塞」は初めて耳にする病名で、その恐ろしさを前に、当初は現実を受け入れる気持ちの余裕がなかった。
「理学療法士さんや作業療法士さんがたびたび『回復が早いですね』などポジティブな声掛けをしてくれたのですが、自分の心の中は『これからどうなるんだろう……』という不安ばかり。
ネットで調べても《経過観察でしかわからない》とされているし、できることはせいぜい足の指をなんとか動かして『神経つながってくれ……』と願うだけで」
尿意や便意の感覚を失ってしまったショックも大きかった。
「尿管を入れていましたし、排便を促すために毎日薬を飲み、腸を動かして便を軟らかくした後にトイレに向かうのですが、すぐには出られません。
最初はオムツを外すこともできず、『このままの生活は耐えられない』と思い悩む日々でした」
体の自由を奪われたことで、一時は病室の窓を見て「いっそ、ここから飛び降りてしまおう」とまで考えた。追い詰められた佐藤を救ったのは、ほかならぬ家族の支えだった。久美子さんが振り返る。
「ふだんは弱音をはくようなタイプではないのですが、入院直後は『僕は一生車いすだから』などの弱気な発言ばかり。LINEにも《これから一生迷惑かけるけど》などの返信が続きました。
地方の病院に入院したので、私たちが毎日お見舞いに行けるわけでもありません。そこで、子どもたちと話し合い、入院の2日後からは家族のグループLINEを使って『毎日パパを楽しませよう』と決めたんです」
おもしろい動画を送ったり、「退院したらパパが食べたいものランキング」をつけたりもした。結果は、1位がラーメンで2位がすし、3位はステーキ。どんなことでもいい、とにかく前向きな言葉だけを並べた。
「ほかに“うれしいサプライズ”も心がけました。たとえば、長男が病院にお見舞いに行くときには前もって知らせず、『昨日、お母さんに靴下頼んだよね?』とLINEを送ってから、直後に『ウーバーイーツで~す』と言って急に病室のドアを開けたり。
仕事が忙しい次男が会社を休んで病室を訪れたときは、パパが涙を見せていたそうです」
家族の献身や周囲のサポートのおかげで、再び前を向くことができたと佐藤は語る。
「入院を公表すると、ファンの方からメッセージをもらったり、以前から関わっている園の子どもたちやスポンサー関係者の方から千羽鶴が送られてきて、勇気づけられました。病院のスタッフさんや家族の励ましにも背中を押されて『一歩でもいいから歩きたい』という気持ちが芽生えてきたんです。
そこからはリハビリの先生方も追い込みが厳しくなって。一日も早く回復するために懸命にリハビリに励みました」
ごく限られた動かせる神経を頼りに、懸命に足を動かす努力を続けた。すると、3週間で都内の病院に移り、リハビリ病院を経て8月20日に退院報告と、奇跡のスピードで回復を遂げた。
「リハビリ中は必死の形相をしていたようで、看護師さんから“鬼の佐藤さん”って呼ばれていたと後から聞きました(笑)。平衡感覚は戻っておらず、まだスタスタとはいきませんが、1キロは歩けるようになりました。
先生方からは『生まれ持った運動神経だね』と言われましたが、ここまで回復するには普通だいたい半年以上はかかるそうです」
退院後の楽しみにしていたのが、自宅の湯船につかることだったという。
「ただ、足を入れても、熱いのか、冷たいのかわからなくてショックでした。胸までつかってようやく温かいと感じることができて。まだこういう感覚なんだと」
■「今後は病気に関する啓発活動もできたら」
現在は週2~3日のリハビリと投薬で、足の平衡感覚や尿意、便意を取り戻すための努力を続けているが、それが1年で終わるのか、一生続くのかは不明だという。
それでも、佐藤からは入院直後のような弱気な発言はいっさい出てこない。
「仕事もできることから少しずつ始めていきたいと思っています。下半身が動かせないので、上半身だけでできること、たとえばトーク番組やイベントのMCなどをやらせもらえたらありがたいです」
さらに、これまでの活動に加えて、取り組んでいきたいことができたと佐藤は言う。
「脊髄梗塞は恐ろしい病気ですが、症例数が少ないため世間にほとんど知られていませんし、保険も三大疾病の対象ではないので下りず、治療費は自己負担でした。今回の経験を生かして、病気のことを知ってもらう啓発活動をしていきたい。同時に、僕と同じ境遇にいる方たちの希望につながることをできたらと考えています」
インタビューの最後に、闘病を支える家族への思いを尋ねると、ちょっぴり照れくさそうにこんな話をしてくれた。
「入院後、最初に僕が決めた目標は、妻との結婚記念日の11月までに退院することだったんです。それがなんと、妻の誕生日の9月までに前倒しでかなえることができました。
結婚記念日には毎年ダイヤモンドのネックレスを贈るのがお決まりだったのですが、以前それを妻がなくしたことがあって(笑)。今年のプレゼントは改めて考えようかな」
夫の笑顔こそ、30年連れ添った妻にとって、これ以上ないプレゼントであるに違いない。
08/27 06:00
女性自身