『蛇の道』黒沢清監督インタビュー「“復讐というシステム”だけがずっと続いている」

黒沢清監督の最新作『蛇の道』が6月14日(金)から公開になる。本作もこれまでの黒沢作品同様、映画的な魅力と面白さ、不気味さに満ちた傑作に仕上がった。黒沢監督は語る。「“映画的な何か”があるから映画なのであって、それがいらないのであれば、映画そのものがいらなくなってしまう」。公開前に話を聞いた。

黒沢監督は2016年にフランスで撮影した『ダゲレオタイプの女』を発表しているが、本作は1998年に黒沢監督が手がけた映画『蛇の道』をフランスでセルフリメイクした作品だ。

黒沢監督は1990年代の後半に“復讐”にまつわる作品をいくつか発表している。1997年に高橋洋が脚本を手がけた『復讐 運命の訪問者』と、自身で脚本を書いた『復讐 消えない傷跡』が公開。同年に初期の代表作のひとつ『CURE』と、再び高橋洋が脚本を書いた『蛇の道』、自身と西山洋一で脚本を手がけた『蜘蛛の瞳』を撮影し、この3作品はすべて翌98年に公開されている。

今回、フランスのプロダクションから「自作でフランスでリメイクしたいものがあるか?」と問われた時、黒沢監督は即答で『蛇の道』の名前を挙げたという。

「理屈で考えているわけではないのですが、高橋くんが書いた脚本の中でも『蛇の道』は『復讐 運命の訪問者』よりも抽象的というか……“復讐をする”という構造だけで脚本が成り立っていると思うんです。『復讐…』は純粋に仇を討つことで物語が成り立っているのですが、『蛇の道』は復讐しようとしている人たちが“何かの仇を討つ”というシンプルな話ではなくて、一体、何をしようとしているのかがよくわからない。

“復讐というシステム”だけがずっと続いているような、誰が誰を殺そうとしているのかよくわからない、あの抽象性に惹かれたと言いますか、この構造は、よりいろんなものを取り込める普遍性があると思っていました」

ダミアン・ボナール演じる男性アルベールは8歳の娘を殺され、日本人で心療内科医の小夜子の協力を得て犯人だと思われる男を捕獲・拉致する。繰り返される拷問の中で、ついにふたりは真相に近づくが、アルベールの娘の死には組織的な犯行の影が見えてくる。アルベールの復讐はさらに続き、彼の協力者である小夜子もまた、想像もしなかった行動を見せ始める。

黒沢監督が語る通り、この物語は“仇打ち”だけのシンプルなものではない。

「復讐もの、というのは本当に古典的で、シェイクスピアから日本ですと赤穂浪士の討ち入りまでいろいろとありますが、実は二種類あって、ひとつは犠牲になった人がいて、その人のために仇を討つものです。これはどこまでいってもハッピーエンドにはならない。復讐したとしても、失われたものは帰ってはこないわけです。

もうひとつは自分がやられたことに対する復讐ですね。(クリント・)イーストウッドの『ペイルライダー』や『女囚さそり』もそうですが、自分がやられたことに対する“仕返し”です。これはそう簡単にスカッとするものでもないですが、スカッと終わる場合もあります。しかしいずれにせよ、復讐は社会的には紛れもない犯罪なわけです。

今回の場合は、自分がやられたのではなくて、身内の者が犠牲になった仇討ち的な復讐から始まるわけですけど、『蛇の道』は一体、何のために、誰に対して復讐をしているのかだんだんわからなくなってくる。これは高橋洋が考えた面白い構造ですよね」

なぜ、小夜子の部屋を“掃除機”が横切るのか?

憎い相手を倒せば、失ったものは戻ってはこないがひとまず復讐は達成される。しかし、本作ではそれだけでは終わらない。監督が語る“復讐というシステム”が止まることなく動き続けるのだ。黒沢監督はこれまでの作品でも“一度、動き出すと二度と止まることなく動き続ける死の機械”といったイメージを提示してきた。

「復讐の構造というものが、そもそも一度始まってしまえば止まらなくなる物語ではあると思うので、“一度、動き出すと二度と止まることなく動き続ける死の機械”といったことを意識していたわけではありません。ただ、映画の中で同じ場所、同じビデオ映像といった繰り返される何かが、機械ではないのですが、止まらない機械的なものを連想させるのかもしれません」

監督は意識していたわけではないと語るが、本作には繰り返されるモチーフ、止まることなく動き続けるモチーフが随所に盛り込まれ、そのことが復讐のドラマよりも“復讐というシステム”そのものを観る者に強く印象づける。

筆者がもっとも驚き、驚愕したのは柴咲コウ演じる小夜子の部屋で止まることなく動き続けるロボット掃除機を捉えたショットだ。機械が止まることなく延々と床を動き、部屋を、スクリーンを横切っていく。何げない場面だが、このショットほど本作の得体のしれない不気味なムードを伝えるものはない。

「あのシーンは最初からああしようと狙っていたわけではないんです。小夜子が自分の部屋にたったひとりでいるというシーンがいくつかあって、そこにはパソコンの画面がポツンとあって、青木崇高さんが映ったりするわけですけど、その前のほんのひと時ですよね。そこには小夜子の日常がある。そこで彼女は何をしていればいいんだろう? と思ったわけです。脚本には何も書かれていないんです。“小夜子が部屋にいるとパソコン画面がつく”としか書いてない。彼女は部屋にいて、何をしているのか……まったくわからなかったんですよ。

わからないままフランスに行って、撮影の準備をしている時にパッと思いついたのは『小夜子は何もしていない。普通の人なら何かをしているんだろうけど、彼女は何もしていない』ということでした。そこで、“何もしていない”ことをどう表現するか? しばらく考えて、小夜子は何かの推移を見守っている、何を見守っているんだろうと考えたときに……ロボット掃除機だと。あれ、動いているとけっこう見ちゃうんですよね(笑)。彼女は何もしていない。でも、何かが動いて変化していく様をじっと観察している。

そこですぐにスタッフに『フランスにロボット掃除機ってある?』って聞いたんです。もしなければ日本から取り寄せようと思ったんですけど、フランスにもありますよって言われて。あれは自分でも面白いことを思いついたなと思いましたし、物語の本筋ではないですが、この映画のキーのひとつにはなると思いました」

「映画ですから、映画でしか経験できない何かをやりたい」

復讐を決行しようとする者たちがいる。ターゲットは捕えられ、拷問され、仇討ちは達成されるかに見えるが、さらなるターゲットが出現し、復讐は止まることなく続いていく。決して終わることのないドラマを断ち切るように、クライマックスには魅力あふれる銃撃戦が描かれる。

かつて『ダゲレオタイプの女』が公開される際、黒沢監督は筆者のインタビューでこう語っている。

「頭の中では“フランスで撮影している”とわかってはいるんですが、実際の映像からはその場所の国籍など特定できないわけで、撮影しながら『これこそが映画の世界なんだ』という想いを密かに楽しみました。初心に戻るではないですけど、日本であれ、パリであれ、映画の普遍的な部分は信じていいんだと改めて感じられましたし、現代の東京によって隠されてしまっていた僕のむきだしの欲望や夢が、この映画で無意識に実現したのかもしれないです」

黒沢監督の“むきだしの欲望”のひとつが、映画における銃撃戦ではないだろうか。日本で銃撃戦を描くことと、どこでもない“映画の世界”で銃撃戦を描くことはまったく意味が違う。

「銃撃戦は日本ではまともに撮ることが難しい分野です。アメリカ映画などでは、いとも簡単に銃撃戦が起こりますし、自分でもVシネマなどで少しはやっていますけど、この映画では大規模ではないですが銃撃戦を最後の見せ場にもってきたいと最初から考えていました。

言葉で説明するのが本当に難しいんですけど、映画における銃撃戦は何であんなにも魅力的なんだろう、と。不謹慎かもしれませんが、あっという間に人間が死んでいく様が、ある動きと音と光をもって表現され、それが次々と起こっていく様は、本当にそんなことが起こったらそれは大変なことなんですが、映画というものを通して楽しむ際には観客の目を釘付けにする楽しさがある。映画的な魅力的に満ちあふれたものだと個人的には思っていました。

僕は本物の拳銃については何も知らないんですけど、映画に登場する小道具としての拳銃は、何でもない普通の状態から、いきなり抜いてバン!と撃つと、撃たれた相手が死んでしまうという、ものすごいドラマが突然、起こるわけです。何でもないかと思っていたら次の瞬間に突然、そこにいた人間が、殺し/殺される関係になる。あの極端にドラマチックな瞬間が映画として魅力的なんですかね。

『殺すぞ』と思わせる長くて大きい銃だと最初から殺意がわかってしまうので、それは別な感じになってしまうんですけど、ピストルは突然出現して、突然に撃つので、その差が極端に出るのです。『あの人は殺す気だったんだ』と突然にわかる。しかも刀と違ってかなりの距離があっても、相手と親密な関係を結ばない間に、そのようなことができてしまう。映画にとっては何とも魅力的な小道具なんです。僕と同じようなことを考えているのはおそらくデイヴィッド・クローネンバーグだと思います。

ですから、この映画でも銃撃戦をある程度は撮ることはできました。もちろん、ここでした話は自分の趣味的なものでもあるので、勝ち誇ったように言うことでも、大きな声で言うことでもないのですが」

改めて書いておくが、映画における銃撃戦と、現実の銃撃戦は別のものだ。本作では、映画でしか起こらない時空間の中で、現実にあり得るかわからないような復讐というシステムの継続と、銃撃戦が描かれる。それはどこの国の話でも、どの時代の話でもない。そこではピストルは相手を殺す道具であるのと同時に、映画的な装置として機能する。そこではロボット掃除機が画面を横切るだけで、圧倒的は恐ろしさと不気味さがわきあがってくるのだ。

「外国映画はフランスでしか撮ってませんから、他の国との比較はできないのですが、こちらの思い込みもあって、アメリカとかフランスに行けば、国籍に縛られない、映画でしか成立しない時空間があるのではなかろうかという幻想があります。それは、フランスにおいては外国人である僕だからできることで、フランス人ならここまで勝手なことはできないのかもしれません(笑)。

これは映画ですから、映画でしか経験できない何かをやりたいですし、観る方もそういうものを望んでいるだろうと信じてやるしかない、と思っています。“映画的な何か”があるから映画なのであって、それがいらないのであれば、映画そのものがいらなくなってしまう。幸いなことにまだ映画は存続していますので、映画は“映画的は何か”を描いて良いのだろうと思っています」

『蛇の道』
6月14日(金)公開
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