日本の好きなところは「丁寧に仕事をすること」。ピーター・バラカンが半世紀を語る
ラジオ、TVを中心に活躍している「ブロードキャスター」、ピーター・バラカン。彼が長年にわたって海外の良質な音楽を日本に紹介する役割を担ってきたことはご存知だろう。40代以上の音楽ファンには、洋楽のビデオクリップを紹介する『ザ・ポッパーズMTV』※なども懐かしい。
※ザ・ポッパーズ・MTV……1984~87年にTBS系で放送されていた人気音楽番組。
仕事で培ってきたその審美眼は、自身がキュレーションする音楽フェス『Peter Barakan’s LIVE MAGIC!』や映画祭『Peter Barakan’s Music Film Festival』として実を結び、現在も多くのファンを魅了し続けている。今年で来日50周年を迎えた「永遠の音楽少年」バラカン氏に、日本で過ごした半世紀を振り返ってもらった。
仕事は使命感というよりも趣味
――ピーターさんが来日したのは1974年のことですね。以来50年間ずっと日本にお住まいですが、これまで一度も帰ろうと思ったことはないんですか。
ピーター・バラカン(以下、ピーター):最初、シンコーミュージックの国際部で働くために来たんだけど、2年目でちょっとイヤになったことはありました。外国から来た人には多いことらしいですけどね。慣れてきた頃に倦怠感を感じるということが。
特に日本の会社は独特だからね、会社員としての生活は、当時の僕にはハードルが高かった。でもイヤだと思う気持ちは、そんなには続かなかったですね。2~3か月経ったら平気になった。
――それが結果的に半世紀も(笑)。ピーターさんを日本につなぎ止めたものとはなんだったんでしょう?
ピーター:それは80年代にラジオの仕事を始めたことですね。僕が一番やりたかったのはラジオだったから。80年代後半には自分の番組を好きなように構成することができるようになって、それが僕にとっての理想の仕事だったんですね。
――84年には『ザ・ポッパーズMTV』が始まってテレビにも出るようになりますが、ピーターさんの活動の根幹は、海外の音楽や映画を日本の人たちに紹介するという“紹介業”ですね。外国人、あるいはイギリス人としての“使命感”みたいなものがあったのでしょうか。
ピーター:使命感というほどではないけれど、昔も今も日本のメディアが取り上げるのは、圧倒的に国内の文化ですからね。でも、使命感というよりは趣味でやってるんです。
――自分のレコード棚からお気に入りのレコードを出して友達に聞かせるみたいな、そういう感覚に近いんですかね。
ピーター:それはすごくあります。僕が一番影響を受けたのは、日本に来る直前ぐらいにロンドンのラジオで聞いてたチャーリー・ギレット※っていう人の番組。 それを聞いて、DJが普通の喋り方で通用するっていうことを初めて意識した。僕がやりたいのはこれだ!って。
※チャーリー・ギレット……『ホンキー・トンク』という番組で知られるDJ。良質なルーツ・ミュージックを紹介していた
――音楽フェスや映画祭のキュレーションも、ラジオの感覚が元になってるんですね。
ピーター:そういう性格なんですよ。好きなものがあると「ねえねえ、これ知ってる?」みたいに友達に薦めるでしょ。みんなやることだけど、僕はそれが人一倍強かったかもしれない(笑)。
――その一方で、好きじゃないものに対しては辛辣でしたよね。
ピーター:それは今思うとちょっと恥ずかしい(笑)。ただね、ラジオではそういうことは言ってなかったと思うんですよね。テレビでは“こんなもの紹介しなくちゃいけないの?”と思うようなものが時々あったんで。テレビはラジオとは違って、出演者が何もかも一人で決められる媒体ではないからね。僕は嘘をつけない性格なんで、そういうときは思いっきり顔に出てたと思います(笑)。
――だからこそ、私たちはそんなピーターさんを信頼していますよ。“この人は嘘はつかない”というのはスゴい信用になりますから。
ピーター:そうね、正直であることはいいと思います。 ただ、好きじゃないものを「好きじゃない」って言うべきかどうかっていうのは……ちょっとわからない。僕は今は嫌いなものには触れないんです。時間がもったいないからね。その分の貴重な時間を、もっと好きなものに充てたほうがいいって思うようになった。
――日本に来たときに一番驚いたことってなんですか?
ピーター:“思っていることを言わない人が多い”ということとか。大阪にいれば違ったかもしれないけどね(笑)。あと、日本の会社は上下関係が厳しいじゃないですか。イギリスだったら「個」が強いので、自分が納得しないことがあったら、それをストレートに言ってもいいけど、日本ではなかなかそういうことが言えなくて、かなり欲求不満が溜まってた時期はあったね。
ちょうど、パンクが始まった頃(76年頃)は、ザ・ダムドのファースト・アルバムを会社のステレオで聴いてて、それで、足元のゴミ箱をバンって蹴っ飛ばしたりもしてました(笑)。
――ピーターさんにもパンクだった時代があったとは(笑)。活動は多岐にわたりますが、「ピーター・バラカンの仕事」として、そのクオリティを守るために気をつけていることはありますか?
ピーター:ごくごく基本的なことばかりですけど、まず「正直であること」。嘘は言わない。あと、「約束を守る」。特に時間に関して。それから「連絡をすぐ返すこと」。
これはウッドストック・フェスティバルの照明担当で、MCも務めていたチップ・モンクっていう人が74年に来日したとき、まだ日本に来たばっかりの僕に、そうアドバイスをしてくれたんです。
この業界でやっていくんだったら、連絡をもらったらすぐに返すことって。どんな返事をするかわからないときでも、また後ほど連絡しますってことだけ返す、そうすると相手が安心するって言うんですよ。それが、僕としてもすごく腑に落ちたんですね。それを今も忘れてないんです。今はコンピューターの前で仕事してることが多いから、メールが入ってきたら読んですぐ返す、ということもあるぐらい。
それから、これは90年代半ばのことだけど、聡明なお婆さんと出会ったことがあって、その人はちょっと霊感というか、そういうのが強い人でね。当時の僕は、何か人に頼まれるたびに“いやいや、僕にはそんなことできない”って決めつけちゃうところがあったんですけど、そのお婆さんに「人に頼まれたことはなんでもやりなさい」って言われたの。“自分ができないと思っても、相手があんたの何かを求めてるんだから、なんでも受けなさい”って。
僕のやる番組はみんな地味だけど長く続く
――では、これまで頼まれたなかで一番びっくりした仕事ってなんですか?
ピーター:テレビのバラエティ番組。数回しか出たことないけど、それは自分には合わないなって。だんだん声がかからなくなったんでよかった(笑)。
あとは『CBSドキュメント』をやってた頃のこと。あれは台本で何を喋るか全部リハーサルしてやってた番組なんだけど、あまりリハーサルしましたって感じに見えちゃうと、見てる人が興醒めしちゃうじゃないですか。
それで、できるだけ自然に映るようにしてたら、僕がなんでも知ってるみたいに映っちゃったらしくて、“国際情勢について語ってくれ”みたいな仕事の依頼が来るようになっちゃったんですね。それはさすがにできないと丁重にお断りしました(笑)。
――『CBSドキュメント』※は本当にすごい番組でしたね。あの番組を担当したことによって、ピーターさんの信頼度がますます上がったと思います。
※CBSドキュメント……1988年から2010年までTBS系で放送されていたドキュメンタリー番組。バラカン氏は解説役を務めた。 2010年から2014年までは『CBS60ミニッツ』としてCSで放送。
ピーター:そうかもしれませんね。あの番組は本当はやるつもりはなかったんです。最初お話をいただいたときに、プロデューサーに「無理です」と言ったんですけど、どうしてもやってほしいということで。VHSのテープを1本渡されて、とりあえず見てくれと。
その素材があまりにも面白かった。おそらく半年くらいでクビになるんじゃないかと思いつつも、こんな面白いビデオを毎週見られるんだから、クビになったらなったで別にいいじゃないかと。それで受けたんですよ。
――それがあんな長寿番組になるとは……。
ピーター:そう、26年(笑)。僕のやる番組はみんな地味だけど長く続くんです。『バラカンビート』(InferFM:1996年スタート)もそうだし、『ウィークエンドサンシャイン』(NHK-FM:1999年スタート)もそうだし、『The Lyfestyle MUSEUM』(TFM:2008年スタート)もそう。
――長寿番組の秘訣というのがあるんですか?
ピーター:いやいや(笑)。ニッチなんだろうね。他の人がやろうとしてないものを、たまたま一手に引き受けてる(笑)。
――自分の好きなものを貫き通しているのがスゴいです。
ピーター:そうですね。好きなことしかやってない。だからよく、体を酷使してるんじゃないかと言われるんだけど、別に全然そんなことはなくて、寝れば元気が出るものだから(笑)。精神的にも肉体的にも無理はしない。
10年続けた音楽フェスを今年で区切る理由
――ピーターさんが監修する音楽フェス『Peter Barakan’s LIVE MAGIC!』は、10回目の今年をもってファイナルとなりますが、この10年間をどう振り返っていますか。
ピーター:そうね、正直言って大変なことが多かった。でも、毎年毎年とてもいいミュージシャンに集まってもらって、本番が終わると、みんな気分がいいんですよ。フェスをやるっていうのは、お金の面でいつも大変だし、アーティストのブッキングも、 もうすでにスケジュールが入ってるとか、ギャラが高すぎて呼べないとか、ツラいことが多かったんだけど、『LIVE MAGIC!』をやってなければ出会えなかったミュージシャンもたくさんいたから、よかったと思ってます。
やっぱり一年目のジョン・クリアリー※とか、よく覚えてますね。あと、大赤字だった2年目のダイメ・アロセナっていうキューバの若い女性とか。最初から最後までずっと出てくれる、濱口祐自っていうすばらしいギタリストも忘れられない。彼との出会いは大きかったですね。
※ジョン・クリアリー……イギリス出身、現在はニュー・オリンズを拠点に活動するシンガー / ピアニスト。
――今年のラインナップのポイントはどこになるんでしょうか。
ピーター:相変わらずバラバラ(笑)。小規模なフェスでは「こういう傾向の音楽」って路線を決めると、それに見合ったお客さんが来るというのがあるんですけど、うちはバラバラです。
――共通点はピーターさんが選んだってことですね。
ピーター:そうだね。マシュー・ハルソールは、僕が去年、一番好きだったレコード(『An Ever Changing View』:23年)を作った人ですし。僕が呼ばなければ日本には来られないだろうと思って。しかも7人編成のバンドですからね。『LIVE MAGIC!』では予算の関係で大所帯のバンドは呼べないんですけど、最後だからドーンとフルセットで。
ノーラ・ブラウンは、現役の大学2年生なんですけど、彼女は学校をちょっとだけ抜けて来てくれるんです。それから里アンナ。最近、奄美大島の島唄がすごく好きになって、この人のことは去年知ったばかりなんですけど、彼女の歌が好きでね。
――9月6日から19日までは恒例の映画祭『Peter Barakan’s Music Film Festival』もありますね。もう4年目になります。
ピーター:今回、すごくいい作品が集まってます。金曜・土曜・祝日は、最初から最後まで僕が劇場にいて、各作品の終演後にちょっと話をします。クレア・ジェフリーズやモーリーン・ゴズリングなど、今回公開される作品を撮った監督たちもゲストに来ますよ。
――楽しみですね。それでは今一度、50年の総括を伺いたいんですが、ピーターさんが50年経っても慣れないことやイヤだなと思っていることはありますか?
ピーター:いろいろあると思います。一つは電車や飛行機のアナウンス。過剰なんですよね。要するに大人扱いしてもらえてない状態。最近は日本語版と英語版が自動で続けて流れるじゃないですか。それなのに車掌が生でさらにアナウンスすることもある。それが毎回ストレスになるんですよ。50年経ってるんだから「そろそろ慣れろ」って言われそうなものだけどね(笑)。
――じゃあ反対に「ここは大好き」という部分は?
ピーター:いっぱいあるけど……僕も当たり前になってしまってて気がついてないところもあると思いますね。一番は「丁寧に仕事をすること」かな。それは海外に行くとすごくわかる。日本人は良くも悪くも細かいことにこだわるけど、丁寧に仕事をしているから社会が円滑に回るというか、それで日常生活のストレスがだいぶ軽減されていると思います。
僕は22歳までロンドンにいたから、基本的な価値観っていうのは、ロンドンの価値観なんです。日本に来たのは大人になってからだから、どうしてもある程度の距離がありますね。でも、それは仕事のうえで役に立っていて、その距離があるからこそ使ってもらえてる。僕が完全に日本人みたいになったら価値がないですよね(笑)。
(取材:美馬 亜貴子)
09/15 12:00
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