パックン「貧しい母子家庭からハーバード大学へ。10歳から新聞配達を行い、同級生と比べてはつらくなった」

「学校では、空腹のあまり体調を崩したことも。そんな時、保健室の先生がくれた牛乳とクッキーがどんなにありがたかったか!」(撮影:藤澤靖子)
1993年に来日し、お笑いコンビ「パックンマックン」を結成してデビューしたパックンさん。母と二人暮らしだった少年時代は、日々満足にご飯を食べられないほどお金に苦労したそう。その経験から、今も無駄遣いをしない生活が当たり前だと語ります(構成:上田恵子 撮影:藤澤靖子)

* * * * * * *

少年時代の苦労が今の糧になっている

僕が初めて日本の地を踏んだのは、1993年のことでした。幼なじみから、「一緒に日本に行かないか?」と誘われたのがきっかけ。彼は文部省(当時)のプログラムの一環で、外国語指導助手として日本で英語を教えることになっていたのです。

僕はというと、アメリカのハーバード大学を卒業したばかりのタイミング。日本に特別な縁はなかったものの、「なんだか面白そう」という好奇心だけで同行を決めました。

最初に住んだのは福井県福井市。そこで英会話講師の職を得て、英語を教えることになりました。給料は手取り20万円ほどだったでしょうか。大学時代に奨学金を借りていたため、100万円超の負債を抱えての社会人デビューでした。

よく、「ハーバード大卒ならどこにでも就職できたでしょう?」と言われます。おっしゃるとおり、同級生の就職先は一流どころばかり。寮のルームメイトには世界経済フォーラムのアメリカ支局長だった人もいます。

同級生にはYahoo!本社の役員もいれば、アメリカの現内閣に所属している人も。一個上の先輩は今、最高裁の判事です。少し在籍がかぶっただけですが、ハリウッドスターのマット・デイモンも同じ大学。

そんななかで僕は、一切の就職活動をしないまま卒業の日を迎えました。というのも、エリートが歩む当たり前のレールの上を走るのではなく、人生を楽しむために、冒険がしたいと思ったからです。

ありがたいことに、福井での生活は本当に楽しいものでした。「ご飯食べよう」「家においで」と声をかけてくれる温かな人がたくさんいて。内陸のコロラド州出身なので、憧れだった海の見える暮らしができたのも嬉しかった。

福井の県民性なのか、みなさんアウトドア好きで、僕も誘われるままに冬はスキー、夏はキャンプと楽しみ、充実した日々を送っていたのです。

僕が日本を大好きになったのは、間違いなく福井の方々のおかげ。今でも、僕の仲良しの友達トップ20のうち、半数は福井の人です。

福井で数年を過ごしたのち上京し、知人の紹介でマックンこと吉田眞に出会って、あれよあれよという間に芸人の道を進むことになりました。願った通り、レールから外れた冒険を今でもできています。

10歳から新聞配達に奔走

僕は1970年にアメリカのモンタナ州で生まれましたが、空軍勤務の父の転勤によりコロラド州にたどりつきました。姉と家族4人、安定した生活を送っていたところ、7歳の時に両親が別居し離婚。僕と母、姉の3人暮らしになりました。

その後、母が折あしくリストラに遭い、不安定な生活に。父からの養育費で、この頃は生活に窮するようなことはなかったのですが、僕が11歳の時、姉が父に引き取られ、養育費の支払いが止められてしまったのです。

そこからの生活は常にギリギリでした。テレビは人からのお古をもらって、壊れたらまた誰かがくれるのを待つ。牛乳は高くて買えないので脱脂粉乳。肉はパサパサした七面鳥のひき肉がメインで、たまに買えるチキンがご馳走でした。

学校では、空腹のあまり体調を崩したことも。そんな時、保健室の先生がくれた牛乳とクッキーがどんなにありがたかったか! 食べたとたんに頭痛が吹き飛んだことを覚えています。

アメリカは経済格差が激しい国なので、僕のような生徒がほかにもいたのでしょう。おそらくあの時の牛乳とクッキーは、先生がポケットマネーで用意してくれたものだと思います。

何よりつらかったのは、同級生と自分とをどうしても比べてしまうことです。

当時は、父親と一緒でなければ参加しづらい活動が多く、父のいない僕はアメリカンフットボール部やボーイスカウトには入りませんでした。道具を買うお金もありませんでしたしね。

また、家計を支えるために10歳から始めた新聞配達のアルバイトが、僕の時間を奪いました。配達は365日。2泊3日のスキー旅行のお誘いなどは、断るか、1日目で帰らないといけないのです。

友人たちとお泊まり会をした時は、みんながまだ寝ている早朝に抜け出し、新聞配達を済ませてから再度合流していました。悔しさのあまり、「クソッ! 新聞配達なんか大嫌いだ!」と叫びながら自転車をこいだものです。

でも、この気持ちを母にぶつけたことは一度もありません。なぜなら母のほうが何倍も大変で、つらい思いをしていたはずだから。毎日同じスカートをはいて、休みなく働いて――。

夜中のキッチンで小切手帳の残高を見ながら泣いていた母の後ろ姿は、今でもはっきり覚えています。

後編につづく

ジャンルで探す